折田兼至
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折田 兼至(おりた かねたか、1858年3月11日(安政5年1月26日[1]) - 1923年(大正12年)6月5日[2])は、明治から大正期の政治家・実業家。衆議院議員(4期)。
経歴
[編集]薩摩国給黎郡知覧郷[3](鹿児島県[2]給黎郡知覧村、川辺郡知覧村、知覧町[4]を経て現南九州市)で、神職[4]・折田丹江の長男として生まれた[1]。1882年(明治15年)2月、家督を相続する[1]。私学校に学ぶ[5]。和漢学、英学を修めた[2]。1882年(明治15年)熊本に九州進歩党を創立した[5]。ほか、学務委員、徴兵参事員、衛生会委員、県教育会副会長などを歴任した[2]。
1883年(明治16年)7月、鹿児島県会議員に選出され[4]、1887年(明治20年)6月、県会副議長[4]、1888年(明治21年)3月、第6代県会議長に就任し[4]、同常置委員も務めた[2]。
1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙(鹿児島県第2区)で当選[2]。第4回総選挙まで連続当選を果たした[2]。
1897年(明治30年)鹿児島県政友会が設立すると政界を引退し[3][4]、鹿児島県農工銀行取締役頭取に就任した[3][4]。
国政選挙歴
[編集]- 第1回衆議院議員総選挙(鹿児島県第2区、1890年7月、自由倶楽部)当選[6]
- 第2回衆議院議員総選挙(鹿児島県第2区、1892年2月、弥生倶楽部)当選[6]
- 第3回衆議院議員総選挙(鹿児島県第2区、1894年3月、立憲革新党)当選[6]
- 第4回衆議院議員総選挙(鹿児島県第2区、1894年9月、立憲革新党)当選[7]
親族
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 篠田正作 編『明治新立志編』鍾美堂、1891年 。
- 人事興信所 編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年 。
- 人事興信所 編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年 。
- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 衆議院、参議院 編『議会制度七十年史 第11』大蔵省印刷局、1962年 。
- 南日本新聞社編『郷土人系 上』春苑堂書店、1969年。
- 鹿児島県姓氏家系大辞典編纂委員会編著『鹿児島県姓氏家系大辞典』角川日本姓氏歴史人物大辞典46、角川書店、1994年。