原田俊太郎
原田 俊太郎 | |
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出生名 | 原田 俊一 |
生誕 | 1955年 |
出身地 | 日本 |
学歴 | 明治大学文学部卒業 |
ジャンル | ジャズ |
職業 |
ドラマー 音楽プロデューサー |
担当楽器 | ドラム |
共同作業者 | T-SQUARE |
公式サイト | 太鼓叩き |
原田 俊太郎(はらだ しゅんたろう、1955年[1] - )は、日本のジャズ・ドラマー、音楽プロデューサー。本名は原田 俊一(はらだ しゅんいち)[2]。デビュー当初は本名名義で音楽活動をしていたが、その後今の芸名に改名した。
来歴・人物
[編集]幼少時にピアノを習う[3]。小学校高学年の頃、家のスティックを持ち出してドラムを始める[3]。中学校・高等学校時代はロックに夢中になったが[3]、マイルス・デイヴィスのアルバム『マイルストーンズ』を聴いてジャズ・ドラマーを志す[3]。明治大学文学部に入学してからは、明治大学モダンジャズ研究会・メランコリーキャッツに入会、レコード喫茶やライブハウスに入りびたる[3][4]。
1976年11月、原田と同じくメランコリー・キャッツのメンバーだったギタリストの安藤正容、明治大学軽音楽クラブ内のジャズ・ビッグバンド・明治大学ビッグサウンズソサエティーオーケストラのメンバー[2]だったキーボーディストの袴塚淳、それに安藤と1973年以来共演しているベーシストの中村裕二[5]とTHE SQUARE(現:T-SQUARE)を結成した[6]。その後4ビートを志しスクェアを退団[7]、阿川泰子のバックバンドのドラマーとなる[3][4]。1978年明治大学を卒業[2]。杉原淳とニュー・サラブレッツに参加して、大橋巨泉が司会を務める『11PM』に5年間出演[3][4]。その後はセッション、自らのグループでの演奏、プロデュース業で活動。プロデューサーとしては斉藤こず恵のプロデュースを手がけている[4]。
家族・親族
[編集]祖父は日本ジャズの創生期に活動したドラマー・ジミー原田[4]、父は祖父と同じくジャズ・ドラマーで日本楽友会会長を務める原田イサム[4]、叔父はバリトン・サクソフォーン奏者の原田忠幸[4]。ジミー・イサム・俊太郎は3代続けてジャズ・ドラマーとなった。
脚注
[編集]- ^ 公式サイト『太鼓叩き』のプロフィールページでは「2005年50歳になる」とあり、逆算すると原田が1955年生まれであることが分かる。
- ^ a b c 明治大学 楽友会ホームページ - 活動するOB・OG リンク集
- ^ a b c d e f g 原田俊太郎 - Jazz Page
- ^ a b c d e f g 公式サイト『太鼓叩き』のプロフィールページ
- ^ スクェアの3枚目のアルバム『Make Me A Star』に封入されている音楽評論家・岩浪洋三が執筆した解説文より。
- ^ 『T-SQUARE 25TH ANNIVERSARY 1976-2001』 リットーミュージック、2001年12月25日第1版発行、ISBN 4-8456-0732-8、10、93頁
- ^ 『T-SQUARE 25TH ANNIVERSARY 1976-2001』、26頁