古島敏雄
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人物情報 | |
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生誕 |
1912年4月14日 日本長野県飯田市 |
死没 | 1995年8月29日 (83歳没) |
出身校 | 東京帝国大学 |
学問 | |
研究分野 | 歴史学(日本経済史・農業史) |
研究機関 | 東京大学、一橋大学、専修大学 |
学位 | 農学博士 |
古島 敏雄(ふるしま としお、1912年4月14日[1] - 1995年8月29日[2][1])は、日本の歴史学者。専門は日本経済史・農業史。東京大学名誉教授。
生涯
[編集]戦前
[編集]1912年、長野県下伊那郡飯田町(現飯田市)で生まれた[1]。飯田中学校を経て[1]、1932年3月第八高等学校理科甲類を卒業[3]し、東京帝国大学農学部農業経済学科に入学。1936年3月に同大学を卒業[4]。
戦後
[編集]1948年10月、東京大学農学部助教授となった[6]。1949年、学位論文『元禄時代に於ける農学の発達とその地盤』を東京大学に提出して農学博士号を取得[7]。
1959年、東京大学農学部教授に昇格。翌1960年から日本経済史講座の担当者が戦死したため空席になっていた一橋大学経済学部教授を併任し、永原慶二とともに中村政則、西田美昭ら多くの後継者を育てた[8][1]。東京大学では農学部図書館長や農学部長なども務めた[1]。1973年に定年退官し、東京大学名誉教授となった。その後は、1974年4月から1983年3月まで専修大学教授を務めた[1]。
1995年、自宅火災によって夫人とともに死去[2]。焼け残った蔵書約550冊(主に近世歴史図書・農産業関連の図書)は、郷里の飯田市立図書館へ寄贈されている。
研究内容・業績
[編集]家族・親族
[編集]著作
[編集]著書
[編集]- 第1巻「徭役労働制の崩壊過程」(原著は1938年)
- 第2巻「日本封建農業史 家族形態と農業の発達」
- 第3巻「近世日本農業の構造」(原著は1943年)
- 第4巻「信州中馬の研究」(原著は1944年)
- 第5巻「日本農学史」
- 第6巻「日本農業技術史」(原著は1947・49年)
- 第7巻「共同体の研究」
- 第8巻「地主制史研究」
- 第9巻「近代農学史研究」
- 第10巻「地方史研究法」
- 『日本農業史』岩波書店[岩波全書]、1952年
- 『土地に刻まれた歴史』岩波書店[岩波新書]、1967年
- 『子供たちの大正時代』平凡社、1982年。平凡社ライブラリー、1997年[13]
- 『台所用具の近代史―生産から消費生活をみる 生活と技術の日本近代史』有斐閣、1996年
- 『社会を見る眼・歴史を見る眼』農山漁村文化協会、2000年
参考文献
[編集]- 『来し方の記 3』信濃毎日新聞社 1982年
- 飯田市歴史研究所 2005『古島史学の現在』飯田市教育委員会
- 海野福寿「古島敏雄氏の訃(学界消息)」『日本歴史』第572号、吉川弘文館、1996年、174頁。
- 東京大学 編『東京大学一覧 自昭和18年至昭和27年』東京大学出版会、1953年、495頁。NCID BA43377853。
- 古島敏雄・百合子御夫妻追悼文集刊行会 編「古島敏雄年譜・著作目録」『わたしたちに刻まれた歴史:追想の古島敏雄・百合子先生』1996年、326-341頁。 NCID BN14919659。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g 古島敏雄・百合子御夫妻追悼文集刊行会 1996
- ^ a b 海野福寿 1996
- ^ 『第八高等学校一覧 第25年度(自昭和7年至昭和8年)』第八高等学校、1932年7月、268頁。NDLJP:1447953/143。
- ^ 『東京帝国大学一覧 昭和11年度』東京帝国大学、1936年7月、539頁。NDLJP:1453465/279。
- ^ 『東京帝国大学一覧 昭和15年度』東京帝国大学、1941年3月、432頁。NDLJP:1466162/226。
- ^ 東京大学 1953
- ^ “書誌事項(CiNii Dissertations)”. 国立情報学研究所. 2017年9月11日閲覧。
- ^ 安丸良夫・佐々木潤之介「日本史」
- ^ 『古島史学の現在』2005
- ^ 古島敏雄先生の思い出—著作集を再読して 阿部正昭
- ^ 栗原純 (2015年). “解説:江丙坤先生のインタビューについて”. 中国・アジア研究論文データベース. 『中国研究月報』中国研究所. 2023年12月22日閲覧。 “p.4:古島和雄教授(社会科学研究所・古島敏夫教授の実弟)”
- ^ 飯田市(古島敏雄著作集)
- ^ 第4回「古島敏雄『子供たちの大正時代』より」