コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

吉原元親

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
吉原元親
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正11年7月2日1583年8月19日
別名 通称:藤左衛門→五郎兵衛
官位 豊後守
主君 毛利元就輝元
氏族 藤原姓吉原氏
父母 父:吉原親冬
兄弟 元親、女(福原貞俊室)、女(敷名元範室)、女(市川式部少輔室)、女(吉原親房室)、女(吉原彦右衛門室)、女(吉原親良室)
元種親俊、女(乃美景興室)、女(和泉藤九郎室)、女(志道元勝室)、女(東村彦右衛門室)
テンプレートを表示

吉原 元親(よしわら もとちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将備後国国人で、後に毛利氏家臣となる。父は吉原親冬。嫡男は下松藩次席家老となる神村元種

出自

[編集]

吉原氏は、源頼朝の時代に駿河国吉原で200貫を知行したことから吉原氏を称し、後に備後国世羅郡下瀬田村へと移った。

生涯

[編集]

備後国国人である吉原親冬の子として生まれる。天文8年(1539年10月1日に父・親冬が死去し、その後を継いだ。

備後国世羅郡下瀬田村から同郡の則光庄に移り、杉城を築いて地名を「吉原村」と改称する。

天文21年(1552年)に毛利元就に属して以降度々軍功を挙げ、永禄年間は尼子氏との戦いに従軍した。また、永禄5年(1562年)には元就の命を受けて本城常光を誅殺し、常光の石見国山吹城に在番した。

天正11年(1583年7月2日に死去。嫡男の元種が後を継いだ。

参考文献

[編集]