吉田虎之助
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吉田虎之助 よしだ とらのすけ | |
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生年月日 | 1868年10月11日 |
出生地 | 日本 滋賀県 |
没年月日 | 1945年9月9日(76歳没) |
前職 | 農業 |
所属政党 | 立憲政友会 |
称号 | 勲七等[注釈 1] |
選挙区 | 滋賀県郡部選挙区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1908年5月15日 - 1914年12月25日 |
常盤村長 | |
在任期間 |
1899年10月28日 - 1902年8月9日 1902年10月10日 - 1908年1月10日 |
滋賀県会議員 | |
選挙区 | 栗太郡選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1899年10月 - 1903年9月 |
栗太郡会議員 | |
常盤村会議員 |
吉田 虎之助(よしだ とらのすけ、1868年10月11日〈明治元年8月26日[1]〉 - 1945年〈昭和20年〉9月9日[2])は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。
経歴
[編集]滋賀県出身[2]。京都林双塾で学ぶ。農業を営み、吉田区長、常盤村(現草津市)会議員[注釈 2]、栗太郡会議員となる[2]。また、栗太郡農会、滋賀県治水会各幹事、琵琶湖水産販売購買組合、近江水産組合各組合長を務めた[2]。ほかに琵琶湖真珠(株)を創立し、淡水真珠の研究及び養殖事業に尽力した[2]。
1899年(明治32年)10月から1903年(明治36年)9月まで滋賀県会議員を1期務めた[4][5][注釈 3]。また、1899年10月28日から1902年(明治35年)8月9日までと、同年10月10日から1908年(明治41年)1月10日まで常盤村長を務めた[7]。
1908年(明治41年)の第10回衆議院議員総選挙において滋賀県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選した[8]。つづく1912年(明治45年)の第11回衆議院議員総選挙でも再選した[9]。衆議院議員を2期務め、1915年(大正4年)の第12回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。大浦事件で1916年(大正5年)に懲役2か月、執行猶予3年、追徴金1000円の判決を受けた[10]。これにより勲七等及び大礼記念章を褫奪された[11]。1945年に死去した。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 衆議院『第二十九回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1912年、28頁。
- ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』709頁。
- ^ 『栗太郡誌 : 16巻 乙編(巻之5-16) 110コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『草津市史 第3巻 216コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『栗太郡誌 : 16巻 乙編(巻之5-16) 122コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『滋賀県議会史 第2巻 472コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『滋賀県市町村沿革史 第2巻 162コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』49頁。
- ^ 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』53頁。
- ^ 雲梯会『高松事件之顛末(前衆議院書記官長林田亀太郎氏関係)』雲梯会、1916年、pp.385-386。
- ^ 官報 1918年06月06日 一五〇頁
参考文献
[編集]- 日本国政調査会編『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』国政出版室、1977年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。