名古屋市立広見小学校
名古屋市立広見小学校 | |
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北緯35度09分24秒 東経136度53分05秒 / 北緯35.15653度 東経136.88472度座標: 北緯35度09分24秒 東経136度53分05秒 / 北緯35.15653度 東経136.88472度 | |
過去の名称 |
愛知第四尋常小学校 猿子尋常小学校 広見尋常小学校 広見国民学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 名古屋市 |
校訓 | やりぬく子・考える子・健康な子 |
共学・別学 | 男女共学 |
学期 | 3学期制 |
学校コード | B123210001164 |
所在地 | 〒454-0007 |
名古屋市中川区広住町4番41号 | |
外部リンク | 公式ウェブサイト |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
名古屋市立広見小学校(なごやしりつ ひろみしょうがっこう)は、名古屋市中川区広住町にある公立小学校。
教育目標
[編集]校訓として「やりぬく子・考える子・健康な子」を設定している[WEB 1]。
歴史
[編集]1921年(大正10年)4月、愛知郡愛知町に愛知第四尋常小学校として設置された[1][2]。開校当初は愛知第二尋常小学校校舎の一部を仮校舎とし、6月に大字日置字猿子に新築した校舎に移転した[1][3]。同年8月、愛知町は名古屋市に編入され、学校名も猿子尋常小学校と改められた[2]。1923年(大正12年)から元中区役所愛知分所を転用して仮教場として使用した。
1929年(昭和4年)6月に西日置町字広見に新築した校舎に移転し、同年9月に仮教場を廃止、翌1930年4月に広見尋常小学校へ改称した[1][2]。これに伴い、「知見ヲ廣メ自ラ修学ニ努メルコト」を意味する校章を制定した[4]。法令改正に伴い1941年(昭和16年)に広見国民学校、1947年(昭和22年)に名古屋市立広見小学校と名を変えた[2]。太平洋戦争後、復興土地区画整理事業によって校地が拡張された[5]。
年表
[編集]- 1921年(大正10年)
- 1923年(大正12年)6月29日 - 仮教場を設置する[1]。
- 1929年(昭和4年)
- 1930年(昭和5年)
- 1934年(昭和9年)11月1日 - 名古屋市の広住町新設により、所在地表記が中区広住町28番地となる[6][7]。
- 1936年(昭和11年)9月1日 - 第3学年以下で二部教授を開始[1]。
- 1937年(昭和12年)
- 1941年(昭和16年)4月1日 - 国民学校令施行により、広見国民学校となる[9]。
- 1944年(昭和19年)
- 1945年(昭和20年)
- 1947年(昭和22年)
- 1979年(昭和54年) - 校庭の西側に造成した「広見の森」完成[4]。
- 1980年(昭和55年)5月25日 - 住居表示実施により、所在地表記が中川区広住町4番41号となる[2][8]。
児童数の変遷
[編集]『名古屋市中区史』(1944年)および『愛知県小中学校誌』(2008年、2018年)によると、児童数の変遷は以下の通りである[15][16][17]。
1927年(昭和2年) | 911人 | |
1937年(昭和12年) | 1256人 | |
1947年(昭和22年) | 724人 | |
1957年(昭和32年) | 1037人 | |
1967年(昭和42年) | 618人 | |
1977年(昭和52年) | 371人 | |
1987年(昭和62年) | 143人 | |
1997年(平成9年) | 120人 | |
2007年(平成19年) | 91人 | |
2017年(平成29年) | 107人 |
児童活動
[編集]委員会活動
[編集]委員会活動として、2022年(令和4年)度は、体育委員会・図書委員会・保健委員会・給食委員会・代表委員会がそれぞれ活動を行っている[WEB 2]。
部活動
[編集]部活動として、2022年(令和4年)度は、野球部・サッカー部がそれぞれ活動を行っている[WEB 2]。
通学区域
[編集]所管する名古屋市教育委員会は、2018年(平成30年)9月1日現在、中川区のうち運河通・西日置町・西日置一丁目・西日置二丁目・広住町・松重町の全域および運河町・山王一丁目・月島町・中川運河東支線の各一部を通学区域として指定している[WEB 3]
また、卒業後の進学先は名古屋市立山王中学校となっている[WEB 4]。
交通アクセス
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 中村区制十五周年記念協賛会 (1953, pp. 244–246)は「戦災を免れた」としている。
WEB
[編集]- ^ “学校紹介”. 名古屋市立広見小学校. 2023年2月6日閲覧。
- ^ a b “児童の活動”. 名古屋市立広見小学校. 2023年2月6日閲覧。
- ^ 名古屋市教育委員会事務局総務部教育環境計画室 (2018年9月1日). “名古屋市立小・中学校の通学区域一覧(中川区)” (PDF). 名古屋市. 2018年11月14日閲覧。
- ^ 名古屋市教育委員会事務局総務部教育環境計画室 (2018年4月1日). “名古屋市立中学校区一覧(小→中)” (PDF). 名古屋市. 2018年11月14日閲覧。
- ^ 名古屋市教育委員会事務局総務部企画経理課 (2018年9月18日). “中川区の小・中学校一覧”. 名古屋市. 2018年11月14日閲覧。
文献
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n 鷲尾重一 1944, pp. 208–209.
- ^ a b c d e f g h i j k l 中川区制50周年記念誌編集委員会 1987, p. 407.
- ^ a b c d e 中村区制十五周年記念協賛会 1953, pp. 231–233.
- ^ a b 『愛知県小中学校誌』 1988, p. 302.
- ^ 戦災復興誌編集委員会 1984, p. 559.
- ^ 「名古屋市告示第二百二十一號」『名古屋市公報』第338号、名古屋市役所、2162–2164頁、1934年10月29日。
- ^ a b 寮金吉 1954, p. 201.
- ^ a b c 角川書店 1992, p. 489,830.
- ^ 中村区制十五周年記念協賛会 1953, p. 237.
- ^ 中村区制十五周年記念協賛会 1953, pp. 252–253.
- ^ a b c 刈谷市誌編さん委員会 1960, pp. 696–700.
- ^ a b 加藤修治 1990, pp. 206–208.
- ^ 加藤修治 1990, pp. 213–214.
- ^ a b 岡崎市教育史編集委員会 1958, pp. 195, 198.
- ^ 鷲尾重一 1944, pp. 209–210.
- ^ 『愛知県小中学校誌』 2008, p. 377.
- ^ 『愛知県小中学校誌』 2018, p. 224.
参考文献
[編集]- 鷲尾重一 編『名古屋市中区史』名古屋市中区役所、1944年2月10日。NDLJP:1042158。
- 中村区制十五周年記念協賛会 編『中村区史』中村区制十五周年記念協賛会、1953年5月20日。 NCID BN14400523。
- 寮金吉 編『名古屋市 教育要覧』 昭和二十九年刊、名古屋市教育委員会事務局総務部調査企画課、1954年3月31日。NDLJP:3036726。
- 岡崎市教育史編集委員会 編『岡崎教育史要』岡崎市教育委員会、1958年3月31日。NDLJP:3039269。
- 刈谷市誌編さん委員会 編『刈谷市誌』愛知県刈谷市役所、1960年8月。NDLJP:3015574。
- 戦災復興誌編集委員会 編『戦災復興誌』名古屋市計画局、1984年3月30日。NDLJP:9672261。
- 中川区制50周年記念誌編集委員会 編『中川区史』中川区制50周年記念事業実行委員会・中川区役所、1987年10月1日。全国書誌番号:88007237。
- 『六三制教育四十周年記念 愛知県小中学校誌』愛知県小中学校長会、1988年2月22日。 NCID BN02160193。
- 加藤修治「学童集団疎開の三十年後」『続刈谷風土記』刈谷郷土を学ぶ会、1990年2月28日、206–216頁。NDLJP:9572080/111。
- 角川書店 編『なごやの町名』名古屋市計画局、1992年3月31日。全国書誌番号:93012879。
- 『六三制教育六十周年記念 愛知県小中学校誌』愛知県小中学校長会、2008年2月17日。 NCID BA86102289。
- 『六三制教育七十周年記念 愛知県小中学校誌』愛知県小中学校長会、2018年2月15日。