コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

周布元盛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
周布元盛
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永禄11年(1568年
死没 文禄2年6月29日1593年7月27日
別名 通称:少輔九郎→孫右衛門
戒名 宗俊
主君 毛利輝元
氏族 藤原北家御神本流益田氏庶流周布氏
父母 父:周布元兼
兄弟 元盛、女(桂元忠室)、長次兼次
益田藤兼の娘
松菊林元直室)
テンプレートを表示

周布 元盛(すふ もともり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将毛利氏家臣。石見国那賀郡周布郷[注 1]を本拠とする国人周布氏当主。父は周布元兼

生涯

[編集]

永禄11年(1568年)、周布元兼の嫡男として生まれる。

天正6年(1578年)の播磨国上月城攻めで吉川元春の軍に属して戦った父・元兼が、同年6月9日に戦死したため、家督を相続する[1]

天正8年(1580年3月11日吉川元長から、周布氏の数十年に渡る昵懇を慶し、今後の毛利輝元への忠誠を確認する書状を送られる。同年3月7日、輝元の加冠により元服し、「元」の偏諱を与えられ、「元盛」と名乗った。元服に際しては、金覆輪太刀一腰、栗毛一疋、一腰、青銅千疋を輝元に献上し、輝元からは返礼として太刀一腰を与えられた[2]。また、翌閏3月8日には吉川元春から元服を祝われ、金覆輪の太刀一腰、馬一疋を贈られている[3]

天正19年(1591年9月25日付の毛利氏重臣8名連署の書状によると、周布氏の所領は石見国那賀郡の井村郷594石4斗7升3合、本郷長浜146石5斗9升3合、長見村87石9斗7升7合、大麻山麓170石9斗5升7合の合計1000石と記されている[4]

天正20年(1592年)4月から始まる文禄の役では吉川広家の軍に属して朝鮮へ渡海し武功を挙げた。文禄2年(1593年4月1日に輝元は元盛の働きを称賛し、追って褒美を与えるように毛利元清安国寺恵瓊に命じている[5]。しかし、同年6月21日から6月29日にかけて行われた第二次晋州城攻防戦に参加して勇戦した元盛は、晋州城を落城させた6月29日に戦死した。享年26。元盛には男子がおらず、幼き娘が成人したら婚姻させて元盛の跡職を命じ、それまでは弟の長次が後を継ぐこととなった[6]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 現在の島根県浜田市周布町。

出典

[編集]
  1. ^ 萩藩閥閲録』巻121「周布吉兵衛」第210号、天正8年(1580年)3月11日付 周布元兼宛て吉川元長書状。
  2. ^ 『萩藩閥閲録』巻121「周布吉兵衛」第211号、天正8年(1580年)比定閏3月7日付、周布元盛宛て毛利輝元書状。
  3. ^ 『萩藩閥閲録』巻121「周布吉兵衛」第214号、天正8年(1580年)比定閏3月8日付、周布元盛宛て吉川元春書状。
  4. ^ 『萩藩閥閲録』巻121「周布吉兵衛」第215号、天正19年(1591年)9月25日付、周布元盛宛て安国寺恵瓊福原広俊渡辺長林就長佐世元嘉二宮就辰内藤元栄毛利元清連署状。
  5. ^ 『萩藩閥閲録』巻121「周布吉兵衛」第216号、文禄2年(1593年)比定4月1日付、安国寺恵瓊、毛利元清宛て毛利輝元書状。
  6. ^ 『萩藩閥閲録』巻121「周布吉兵衛」第218号、文禄2年(1593年)比定8月8日付、周布長次宛て毛利元清、林就長、安国寺恵瓊書状。

参考文献

[編集]
先代
周布元兼
周布氏当主
1578年 - 1593年
次代
周布長次