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和気仲世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
和気 仲世
時代 平安時代前期
生誕 延暦3年(784年
死没 仁寿2年2月19日852年3月13日
官位 従四位上播磨守
主君 桓武天皇平城天皇嵯峨天皇淳和天皇仁明天皇文徳天皇
氏族 和気氏
父母 父:和気清麻呂
兄弟 広世、達男、磐梨為綱(妙運)、真綱仲世藤原葛野麻呂
貞臣
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和気 仲世(わけ の なかよ)は、平安時代前期の貴族民部卿和気清麻呂の六男。官位従四位上播磨守

経歴

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延暦21年(802年文章生に補せられ、大同元年(806年大学大允弘仁6年(815年式部大丞を経て、弘仁10年(819年従五位下叙爵

天長元年(824年)かつて父・和気清麻呂が建立し桓武朝に定額寺に列格されていた神願寺について、寺域が汚れていることを理由に、高雄山寺の寺域に移して、新たに神護国祚真言寺と称することを、兄・真綱と共に言上して許されている[1]淳和朝では、北陸道巡察使近江介と地方官を歴任するが、近江介在任中は俸禄を貧民に施し与えたという。またこの間の天長3年(826年)従五位上、天長8年(831年正五位下と昇進し、承和元年(834年)迄に従四位下に叙せられている。

仁明朝に入り、承和4年(837年)弾正大弼に任ぜられるが、初め弾正台に南門がなかったことから、申請して中院西門を移築して南門とした[2]。また、個人的に位禄をもって近江国高島郡の田五町を購入して、太政官厨家の費用に充当したという[2]。のち阿波守刑部大輔伊勢守治部大輔勘解由長官などを歴任し、承和8年(841年)従四位上に至る。承和11年(844年播磨守として同国に赴任するが、国内は穏やかで落ち着き、民衆は敢えて騒ぎ立てるようなことはなかったという[2]

病により仁寿2年(852年)2月19日に人々に惜しまれつつ卒去[2]。享年69。最終官位は散位従四位上。

人物

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非常に孝行な性格であった。忠実に朝廷のために一身を捧げて働き、毎晩就寝する際は首を大内裏に向けて寝たという[2]。また、兄・真綱と共に空海を庇護した。

官歴

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六国史』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ 『日本後紀』天長元年9月27日条
  2. ^ a b c d e 日本文徳天皇実録』仁寿2年2月19日条

参考文献

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