和泉信一
表示
いずみ しんいち 和泉 信一 | |
---|---|
生誕 |
1926年7月25日[1][2] 日本 千葉県船橋市[1]もしくは東京都[2] |
死没 | 2016年8月26日(90歳没)[3] |
出身校 | 東京商科大学[1] |
職業 | |
肩書き |
|
配偶者 | 和泉 京子[1] |
子供 |
|
和泉 信一(いずみ しんいち、1926年7月25日[1][2] - 2016年8月26日[3])は、日本の実業家、馬主。
馬主活動
[編集]日本中央競馬会(JRA)に登録していた馬主としても知られた。勝負服の柄は赤、白二本輪、青袖、冠名には主に「ナカヤマ」、過去には「イズミ」、「シン」を用いた。日本馬主協会連合会会長を務めたのち、同会の名誉会長となったほか、2011年現在では東日本馬主協議会・中山馬主協会の最高顧問も務めていた[4]。
馬主となったきっかけは、大井競馬場で先に馬主となっていた弟の敬三(2005年没)の所有馬が増え持ちきれなくなり、兄である信一に所有を頼んだこと[2]で、大井競馬を経て国営競馬(現中央競馬)の馬主となる。昭和30年代には抽せん馬が大量に当たり、レースで所有馬が上位を独占したこともあった[2]。
娘の信子も馬主であった[注 1]が、2009年11月に食道がんのため[5]死去した。ナカヤマフェスタは、信子の死後に信一が引き継いだ馬であった。2016年8月26日に信一が90歳で死去[3]した後は、馬主であった息子の憲一[6]が信一の勝負服の柄を引き継いでいる[注 2]。
1950年代には北洋牧場を設立[7]し、オーナーブリーダーとしても活動していた。
来歴
[編集]- 1951年 - 国営競馬の馬主資格取得[3]。
- 1952年 - 1953年頃 - 北海道に北洋牧場を開設[7]。
- 2003年 - 4月に日本馬主協会連合会会長理事に就任( - 2005年3月)。
- 2010年 - 宝塚記念をナカヤマフェスタが制し、GI級競走初制覇[5]。さらに同年の凱旋門賞でアタマ差の2着となり[8]、日本馬として最も凱旋門賞制覇に近づいた。
主な所有馬
[編集]GI級競走優勝馬
[編集]重賞競走優勝馬
[編集]その他の所有馬
[編集]- ファイヴナカヤマ(1995年関越ステークス)
- ハイパーナカヤマ(1998年共同通信杯4歳ステークス2着)
- ナカヤマパラダイス(2007年CBC賞2着、アイビスサマーダッシュ2着、2008年オーシャンステークス3着)
信和商会名義の所有馬
[編集]- 重賞競走優勝馬
- スーパーナカヤマ(1998年ガーネットステークス)[注 4]
- その他の所有馬
- ビッグナカヤマ(1995年アイビーステークス、2戦2勝)
- エフワンナカヤマ(1998年京成杯2着)
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e 『大衆人事録』第20版 東日本篇 63頁
- ^ a b c d e f 『優駿』、中央競馬ピーアール・センター、2010年10月、24-27頁。
- ^ a b c d “和泉信一オーナー死去 ナカヤマフェスタなど所有”. 極ウマ. 日刊スポーツ (2016年9月2日). 2023年3月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月16日閲覧。
- ^ 東京スポーツ・2011年4月20日付 18面
- ^ a b “【第1回】ロンシャンに咲くすみれの花(前編)”. ホースマン・サロン. 一般社団法人 中山馬主協会 (2010年10月1日). 2023年3月16日閲覧。
- ^ “母キズナのボーンジーニアスが初勝利!父ナカヤマフェスタと同じ勝負服で”. 極ウマ. 日刊スポーツ (2021年9月1日). 2023年3月16日閲覧。
- ^ a b “【第5回】馬主事始(後編)”. ホースマン・サロン. 一般社団法人 中山馬主協会 (2010年10月14日). 2023年3月16日閲覧。
- ^ “【凱旋門賞】ナカヤマフェスタはアタマ差2着に惜敗!”. 競馬ラボ (2010年10月3日). 2023年3月16日閲覧。
参考文献
[編集]外部リンク
[編集]- ホースマン・サロン 和泉信一さん 第1回( - 第13回) - 中山馬主協会
|
|