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土御門晴榮

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土御門晴栄から転送)
土御門 晴榮
つちみかど はれなが
1913年(大正2年)
生年月日 1859年6月30日
没年月日 (1915-10-16) 1915年10月16日(56歳没)
前職 大学御用掛
称号正三位
子爵
親族 土御門晴善(養孫)

日本の旗 貴族院議員
選挙区 貴族院子爵議員
当選回数 3回
在任期間 1900年6月21日 - 1904年7月9日
1908年3月18日 - 1911年7月9日
1911年7月10日 - 1915年10月16日
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土御門 晴栄(つちみかど はれなが、旧字体:晴榮1859年6月30日安政6年6月1日[1] - 1915年大正4年)10月16日)は、日本陰陽師政治家。贈正三位爵位子爵幼名和丸旧姓錦織(にしごり)。名前の読みは「はれよし」とも。

天文暦道御用掛、大学御用掛、貴族院議員(3期)などを歴任した。

概要

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天文暦道陰陽道を家業とする土御門家の当主である。安倍晴明など著名な陰陽師を輩出した安倍氏嫡流であるが、家督を継いでからは苦難が続いた。養父の急逝により幼くして当主となったが、明治に入ると陰陽寮が廃止され、編暦に関する権限、土御門家伝来の特権を次々と失うことになった。晩年は貴族院議員を3期務めて帝国議会において活動した。

来歴

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生い立ち

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公家錦織久隆の次男として生まれた[2]安土桃山時代の土御門家当主・久脩から女系を1回経た末裔、また江戸時代中期の当主・泰福から女系を2回経た末裔にあたる[注釈 1]錦織家半家家格であり、久隆は刑部卿などを務めていた。また久隆は晴栄が生まれる前年に起こった廷臣八十八卿列参事件にかかわっていたことでも知られている。その後、公家の土御門晴雄の三女と結婚して婿養子に入る[2]。土御門家も半家の家格であり、天文・暦道・陰陽道を家業としていた[2]。晴雄は陰陽頭民部卿などを務めていたが[2]明治維新を機に幕府天文方を廃止するよう主張し、朝廷より許された。これにより、天文方の暦算や頒暦の権限は朝廷に返されることになり、朝廷で陰陽寮を統括していた土御門家が日本の編暦を一手に担うことになっていった。

陰陽師として

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1869年(明治2年)、養父・土御門晴雄が死去したことに伴い[2][3]、晴栄が土御門家の家督を継いだ[2][4]。その翌年には天社禁止令により陰陽師の免許が禁止され、陰陽寮が廃止されることになったため、陰陽道を家業としていた土御門家にとっては苦難の時代が始まった。

陰陽寮が所管していた天文暦道は、大学校東京帝国大学の前身)の下に設置された天文暦道局に移管されることになったが、その際に土御門家の当主として晴栄は新政府より天文暦道御用掛を命じられた[5]。しかし天文暦道局の本局が東京に移転されることになったため、京都の土御門家はその出先機関のような扱いとなり、出張所が設置されることになった[6]。その後天文暦道局が星学局に改組されるにあたり、京都星学局出張所は廃止されることになり[7]、晴栄も大学御用掛を解任されて[8][9]、ここに土御門家は編暦に関する権限をすべて失うことになった。

政治家として

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明治維新とともに堂上公家として華族に列していた晴栄は、1884年(明治17年)7月8日の華族令に基づき子爵に叙された[10]。その後1900年(明治33年)6月の貴族院子爵議員補欠選挙で当選して[11]同年6月21日から貴族院議員を務め[12]、1904年(明治37年)7月9日の任期満了まで在任[注釈 2]。1908年(明治41年)に行われた子爵議員の補選で再び当選、同年3月18日から貴族院議員を務め[13]、次の1911年(明治44年)7月の第4回子爵議員選挙でも再選されたが[14]、1915年(大正4年)10月16日議員在職のまま死去[15]、同日付で正三位に叙された[16]

晴栄は晩年に子爵冷泉為柔の長女を後妻に迎えた[2]。また、子爵松平信正の次男・晴行を自身の長女と結婚させて婿養子に迎えた[2]。土御門家の家督と爵位はこの晴行が継いでいる。

略年譜

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  • 1859年(安政6年)- 誕生
  • 1870年(明治3年)- 天文暦道御用掛
  • 1900年(明治33年)- 貴族院子爵議員補欠選挙当選
  • 1908年(明治37年)- 貴族院子爵議員補欠選挙当選
  • 1911年(明治44年)- 第四回貴族院子爵議員選挙当選
  • 1915年(大正4年)- 死去

栄典

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家族・親族

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脚注

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注釈

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  1. ^ 土御門久脩-倉橋泰吉-泰房-泰貞-泰章(母は土御門泰福の娘)-萩原員領室-従言-錦織久雄-久隆-土御門晴榮 (参照:土御門久脩#末裔
  2. ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』48頁では任期満了前の6月に辞任としているが、帝国議会会議録では任期まで在任している。

出典

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  1. ^ 霞会館 1996, p. 105.
  2. ^ a b c d e f g h 霞会館諸家資料調査委員会編纂『昭和新修華族家系大成』下巻、霞会館、1984年、100頁。
  3. ^ 「土御門和丸ヨリ父晴雄死去届」『公文録』54巻。
  4. ^ 「土御門和丸ヨリ天文暦道ノ儀ニ付願」『公文録』55巻。
  5. ^ 内閣記録局編『法規分類大全』16巻、内閣記録局、1889年、303頁。
  6. ^ 「天文暦道局ヲ東京ニ移シ西京ハ土御門家ヲ以テ官庁ニ充ツ」『太政類典』118巻。
  7. ^ 内閣記録局編『法規分類大全』2巻、内閣記録局、1889年、19頁。
  8. ^ 内閣記録局編『法規分類大全』2巻、内閣記録局、1889年、20頁。
  9. ^ 「星学局出張所廃シニ付土御門和丸大学御用掛ヲ免セラル」『太政類典』117巻。
  10. ^ 小田部雄次『華族』中央公論新社、2006年、333頁。
  11. ^ 「帝國議會」『官報』5090號、印刷局、1900年6月22日、313面。
  12. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、10頁。
  13. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、17頁。
  14. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、20頁。
  15. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、23頁。
  16. ^ 「叙任及辭令」『官報』965號、印刷局、1915年10月19日、411面。
  17. ^ 『官報』第3301号「叙任及辞令」1894年7月2日。

参考文献

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  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 霞会館 編『平成新修旧華族家系大成』《下巻》吉川弘文館、1996年。 


日本の爵位
先代
(叙爵)
子爵
土御門家初代
1884年 - 1915年
次代
土御門晴行
その他の役職
先代
土御門晴雄
土御門家当主
1869年 - 1915年
次代
土御門晴行