垂仁天皇
垂仁天皇 | |
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『御歴代百廿一天皇御尊影』より「垂仁天皇」 | |
時代 | 伝承の時代(古墳時代) |
先代 | 崇神天皇 |
次代 | 景行天皇 |
誕生 | 崇神天皇29年 |
崩御 | 垂仁天皇99年 140歳 |
陵所 | 菅原伏見東陵 |
漢風諡号 | 垂仁天皇 |
和風諡号 | 活目入彦五十狭茅天皇 |
諱 | 活目尊 |
別称 |
活目入彦五十狭茅尊 伊久牟尼利比古大王 |
父親 | 崇神天皇 |
母親 | 御間城姫(孝元天皇皇孫) |
皇后 |
狭穂姫命(開化天皇皇孫) 日葉酢媛命(開化天皇皇曾孫) |
子女 | 景行天皇 他 |
皇居 | 纒向珠城宮 |
垂仁天皇(すいにんてんのう、崇神天皇29年1月1日 - 垂仁天皇99年7月1日)は、日本の第11代天皇(在位:垂仁天皇元年1月2日 - 垂仁天皇99年7月1日)。『日本書紀』での名は活目入彦五十狭茅天皇。治世には様々な起源伝承が語られる。先代の崇神天皇、次代の景行天皇と共に纒向遺跡付近に都したと伝えられる天皇の一人であり、考古学上、実在したとすれば3世紀後半から4世紀前半ごろの大王と推定されるが、定かではない。
略歴
[編集]御間城天皇(崇神天皇)の第三皇子。生母は皇后の御間城姫命(みまきひめのみこと、大彦命〈孝元天皇皇子〉の娘)である[1]。兄の豊城入彦命をこえて、24才で皇太子に立てられる[1]。
父帝が崩御した翌年の1月2日に即位[1]。即位2年に彦坐王(天皇の伯父)の娘の狭穂姫命を皇后とした[1]。即位5年に皇后の兄の狭穂彦王が叛乱を起こし、皇后もこれに従って兄と共に焼死した[1]。即位15年2月、丹波道主王の娘の日葉酢媛命を新たな皇后として大足彦尊(景行天皇)、倭姫命らを得た[1]。即位25年、五大夫を集めて祭祀の振興を誓い、伊勢神宮、武器奉納、相撲、埴輪、鳥飼といった様々な文化の発祥に関わったとされる。即位37年、大足彦尊を立太子。即位99年に140歳で崩御、『古事記』に153歳。
名
[編集]- 活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと) - 『日本書紀』
- 活目天皇(いくめのすめらみこと) - 『日本書紀』
- 活目尊(いくめのみこと) - 『日本書紀』
- 伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと) - 『古事記』
- 伊久米天皇 - 『常陸国風土記』
- 生目天皇 - 『令集解』所引「古記」
- 伊久牟尼利比古(いくむにりひこ)大王 - 『上宮記』
漢風諡号である「垂仁天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。
事績
[編集]狭穂彦の謀反
[編集]即位2年、狭穂姫を立后。
即位5年、天皇の従弟にあたる狭穂彦は妹の皇后を唆して天皇を暗殺しようとした。「夫と兄のどちらが愛しいか」と問われ「兄」と答えた皇后は短刀を渡され、寝ている天皇を刺せと告げられた。断ることができなかった皇后は、しかしもう少しというところでどうしてもできず天皇にすべてを打ち明けた。天皇は狭穂彦を討伐することにしたが、兄を見捨てられない狭穂姫は自分が生んだ誉津別命を連れて狭穂彦の元に走った。長らく攻めあぐねた天皇がついに狭穂彦の稲城に火をつけると狭穂姫が飛び出してきた。しかし皇后は誉津別命だけを預けて燃える城の中に戻ってしまい、そのまま兄と共に焼け死んでしまった。
『古事記』では狭穂彦の元に走った皇后は皇子を妊娠しており、稲城で生まれた皇子を渡しに外へ出てきたとある。天皇は屈強な兵士を差し向けて皇后を奪還しようとするが失敗。諦めきれない天皇は子の名付けや育て方、後任の皇后について尋ねて時間稼ぎをしたがついに話すことも無くなり泣く泣く稲城に火を放ち、皇后は兄と共に焼死した。
即位15年、天皇は丹波道主王の娘たちと再婚し、長女の日葉酢媛命を皇后とした[1]。しかし末娘の竹野媛だけは醜かったので故郷に返した(『古事記』では歌凝比売と円野比売の2人)。大いに恥じた竹野媛は葛野で輿から投身自殺してしまった(『古事記』では円野比売。相楽で自殺未遂、弟国で自殺)。
祭祀の振興
[編集]即位25年、武渟川別・彦国葺・大鹿嶋・物部十千根・大伴武日の五大夫を集めて先皇(崇神天皇)の偉業を称え、先皇と同様に神を祀ることを誓った。同年、天照大神を異母姉妹の豊鍬入姫命から離し、その祭祀を日葉酢媛命が生んだ皇女の倭姫命に託した。宇陀、近江、美濃と周った倭姫命は最終的に伊勢に落ち着き伊勢神宮を建立した(元伊勢伝承)[1]。
即位27年、初めて屯倉(天皇の直轄地)を作った。また諸神社に武器を献納し神地・神戸を定めた。
即位35年、子の五十瓊敷入彦命に河内国の高石池や茅渟(ちぬ)池を始め諸国に多くの池溝を開かせて農業を盛んにした[1]。
即位39年、子の五十瓊敷入彦命が千本の剣を作り石上神宮に納めたことをきっかけに同神宮の神宝を掌らせる。
即位88年、天日槍の曾孫の但馬清彦に但馬の神宝を献上させた[1]。現在、その神宝は出石神社で祭られている[1]。
即位99年、崩御。『住吉大社神代記』には、在位53年で辛未年に崩御したとある。この干支は『書紀』の庚午年没と1年異なるが『古事記』では崇神天皇没の戊寅年の53年後が辛未のため一致し、これに基づけば崇神天皇は258年、垂仁天皇は311年没と推定される。
系譜
[編集]系図
[編集]10 崇神天皇 | 彦坐王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豊城入彦命 | 11 垂仁天皇 | 丹波道主命 | 山代之大筒木真若王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
〔上毛野氏〕 〔下毛野氏〕 | 12 景行天皇 | 倭姫命 | 迦邇米雷王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本武尊 | 13 成務天皇 | 息長宿禰王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
14 仲哀天皇 | 神功皇后 (仲哀天皇后) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
15 応神天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
16 仁徳天皇 | 菟道稚郎子 | 稚野毛二派皇子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
17 履中天皇 | 18 反正天皇 | 19 允恭天皇 | 意富富杼王 | 忍坂大中姫 (允恭天皇后) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
市辺押磐皇子 | 木梨軽皇子 | 20 安康天皇 | 21 雄略天皇 | 乎非王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
飯豊青皇女 | 24 仁賢天皇 | 23 顕宗天皇 | 22 清寧天皇 | 春日大娘皇女 (仁賢天皇后) | 彦主人王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
手白香皇女 (継体天皇后) | 25 武烈天皇 | 26 継体天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
后妃・皇子女
[編集]- 皇后(前):狭穂姫命(彦坐王〈開化天皇の皇子〉の女)。垂仁天皇5年に崩御(焼死)したとされる
- 皇后(後):日葉酢媛命(丹波道主王〈開化天皇の皇孫〉の女)。
- 妃:渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりひめ。日葉酢媛命の妹)
- 妃:真砥野媛(まとのひめ。日葉酢媛命の妹)
- 妃:薊瓊入媛(あざみにいりひめ。同上)
- 妃:迦具夜比売(かぐやひめ。大筒木垂根王の女)。 - 開化天皇の曾孫。かぐや姫のモデル説有
- 袁那弁王(おなべのみこ、『古事記』のみ)
- 妃:綺戸辺(かにはたとべ、弟苅羽田刀弁。山背大国不遅の女)
- 妃:苅幡戸辺(かりはたとべ、苅羽田刀弁)。弟苅羽田刀弁の姉
- 母親未詳
- 円目王(つぶらめのみこ)。遊部君の祖。
『日本書紀』では天皇の子女を垂仁天皇まで「~命」と表記するが、次代の景行天皇以後は基本的に「~皇子」「~皇女」と表記する[2]。
年譜
[編集]『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである[2]。機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。
- 崇神天皇29年
- 1月1日、誕生(垂仁天皇即位前紀による。崇神天皇元年の条では、御間城姫はこれより前に垂仁天皇を生んだとあり、矛盾する記述となっている)。
- 崇神天皇48年
- 4月、皇太子に立てられる。
- 垂仁天皇元年
- 1月、即位。
- 垂仁天皇2年
- 2月、狭穂姫命を立后。
- 10月、纒向に遷都。
- 垂仁天皇3年
- 垂仁天皇5年
- 垂仁天皇7年
- 垂仁天皇15年
- 垂仁天皇23年
- 垂仁天皇25年
- 垂仁天皇27年
- 垂仁天皇28年
- 殉死の禁令。
- 垂仁天皇32年
- 垂仁天皇35年
- 垂仁天皇37年
- 大足彦尊を皇太子とする。
- 垂仁天皇39年
- 10月、五十瓊敷入彦命が剣千振を作り石上神宮に納める。この後、五十瓊敷命に命じて、同神宮の神宝を掌らせる。
- 垂仁天皇88年
- 垂仁天皇90年
- 垂仁天皇99年
- 景行天皇元年
- 3月、田道間守が帰国。
宮
[編集]宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)、『古事記』では師木玉垣宮(しきのたまかきのみや)。伝承地は奈良県桜井市穴師周辺。
なお京都府久世郡久御山町市田の地には宮城跡とされる地域があり、その地には垂仁天皇と和気清麻呂を祭った珠城神社(久世郡久御山町大字市田小字珠城2-1)がある。
陵・霊廟
[編集]陵(みささぎ)の名は菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)。宮内庁により奈良県奈良市尼辻西町にある遺跡名「宝来山古墳」に治定されている。墳丘長227メートルの前方後円墳である。宮内庁上の形式は前方後円。
『古事記』には「御陵は菅原の御立野(みたちの)の中にあり」、『日本書紀』には「菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ)」、『続日本紀』には「櫛見山陵」とある。『延喜式』諸陵寮では「菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)」として兆域は東西2町・南北2町、陵戸2烟、守戸1烟で遠陵としている。現在の宝来山古墳の濠の中、南東に田道間守の墓とされる小島がある。この位置は、かつての濠の堤上に相当し、濠を貯水のため拡張して、島状になったと推測される。しかし、戸田忠至等による文久の修陵図では、この墓らしきものは描かれていない。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
伝承
[編集]※ 史料は、特記のない限り『日本書紀』に拠る[2]。
夢占い
[編集]崇神天皇48年、父の御間城天皇(崇神天皇)は活目尊(後の垂仁天皇)とその兄の豊城入彦命のどちらかを皇太子にしたいと考えていた。そこで二人が見た夢から決めることにした。兄の豊城命は東に向かって武器を振るう夢を見た。弟の活目尊は縄を四方に張って雀を追い払う夢を見た。兄は東しか向いていないが弟は四方を見ていると判断した父帝は活目尊を皇太子にした。
加羅と新羅との関係
[編集]垂仁2年冬10月、来日した加羅国王の息子都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)に赤絹を下賜し、先代崇神天皇の諱である「みまな」(任那、弥摩那、彌摩那)という国を建てるよう詔して[4]、帰国させたとされる。
垂仁3年の春3月には新羅王子として天日槍(アメノヒボコ)が渡来した。アメノヒボコと妻の阿加流比売(アカルヒメ)は播磨國に入り、子孫に但馬国の清日子、その子孫に神功皇后(仲哀天皇の妻)が誕生した。
誉津別命と白鳥
[編集]狭穂彦の謀反で焼死した皇后狭穂姫が遺した誉津別命は、大人になっても言葉を話すことができず振舞いも子供のようだった。即位23年、天皇は群臣に相談したが解決策は浮かばなかった。その翌月、白鳥がやってきたのを見た誉津別命は「あれはなんだ」と初めて言葉を発した。喜んだ天皇は天湯河板挙にその白鳥を捕まえるよう命じた。湯河板挙は出雲で白鳥を捕まえて天皇に献上した。誉津別命は白鳥を遊び相手にしているうちに言葉を話せるようになったので、ここに鳥取部・鳥飼部・誉津部を設けた。『古事記』では天湯河板挙は山辺大鶙という名で登場する。越国まで行って白鳥を捕まえるものの本牟智和気王(誉津別命)は一向にしゃべる気配を見せなかった。その後に天皇は出雲大社の神殿を改築せよという大国主神の託宣を受けて従ったところ本牟智和気王は言葉を話せるようになったという。
野見宿禰
[編集]即位7年、天皇は出雲国造家の野見宿禰を召喚した。当麻村に当麻蹴速という強者がいたからである。当麻蹴速は「自分より強いものはいないのか、全力で力比べできる相手はいないものか」と吹聴していた。そこで野見宿禰を当麻蹴速と戦わせたところ、互いに蹴り合った末に野見宿禰が当麻蹴速の腰を踏み折って勝った。これが相撲節会の起源だとされる。天皇は当麻蹴速が持っていた大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を野見宿禰に与えた。
それからしばらくたった即位32年、皇后の日葉酢媛命が亡くなった。少し前の即位28年に亡くなった倭彦命の葬儀で近習者を集めて殉死させた有様があまりに惨たらしかったため、天皇は殉死の風習に代わるものを考えていた。そこに野見宿禰が進み出て出雲国から100人の土部(はじべ)を呼び寄せることにした。野見宿禰たちは人や馬の形をした焼き物を作り殉死者の代わりとしてはどうかと提案した。これが埴輪の起源だとされる[1]。天皇はこれを称えて野見宿禰に土師臣(はじのおみ)の姓を与えた。なお考古学的には人型や馬型の埴輪は埴輪の中でもかなり後になって出てくるものであり、人型が始まりというこの説話は正しくないことがわかっている。『古事記』には「石祝(棺か)作りを定め、土師部(はにしべ)を定めたまいき」とある。石棺を作る部民や赤土で種々の器を作る部民を定めたという意味である。
山背行幸
[編集]即位34年、天皇が山背(京都府南部)に行幸したときのことである。綺戸辺(かにはたとべ)という美人がいると聞いた天皇は「もしその人と縁があるならば瑞兆があるはずだ」と誓約(うけい)をした。もうすぐ行宮(宿)に着くというところで大きな亀を見つけた天皇は矛を取って突き刺した。すると亀は白い石へと変わった。なるほど、これが瑞兆なのだろうということで綺戸辺は後宮に召された。
非時香菓
[編集]晩年の即位90年、天皇は田道間守を常世国へ遣わして非時香菓(ときじくのかくのみ)を探させた。常世国にたどり着いた田道間守は非時香菓が沢山成っているのを見つけた。そこで実を持ち帰ったのだが既に天皇は亡くなっていた。帰れるとは思えないほどの困難な旅を成し遂げたはずの田道間守は、しかし天皇の元に実を持ち帰ると言う目的を果たせなかった。悲観した田道間守は陵のそばで自殺した。この実は今の橘であると『日本書紀』に書かれているが諸説ある。また垂仁天皇陵の周堀には小島があるが、これは江戸時代の修陵で田道間守の墓に擬して削り遺された外堤であり拝所も設けられている。『古事記』では大后・比婆須比売命(日葉酢媛命)が非時香菓の半分を受け取ったとされ、大后は天皇崩御後まで生きていたことになる。
浅間神社創始
[編集]垂仁天皇の御代に富士山周辺の浅間神社が創始されている。「富士本宮浅間社記」によれば、”第7代孝霊天皇の御代、富士山が噴火したため、周辺住民は離散し、荒れ果てた状態が長期に及んだ。第11代垂仁天皇はこれを憂い、その3年(前27年)に浅間大神を山足の地に祀り山霊を鎮めた。”とあり、富士山本宮浅間大社はこれを創始の由緒としている[5]。また甲斐国一宮である浅間神社由緒には”第11代垂仁天皇8年(前22年)正月始めて神山の麓にお祀りされた。今ここを山宮神社と称して摂社となっている。[6]”とあり垂仁天皇即位前後に富士山の火山活動が起こっていた可能性がある。
賊徒襲来と終焉
[編集]福岡県糸島市雷山にある縣社雷神社社伝によると第6代孝安天皇(BC392-291)から第11代垂仁天皇(BC29-99)の御代に至るまで異国の賊徒からの七度にわたる襲来があり、当社の神である層增岐(ソソギ)大明神が雷雨を降らせ異賊を降伏させた。垂仁天皇はその御神徳を畏み、勅命を下し中宮の社殿を建て、敵国降伏の神として尊崇した。と伝えられている[7]。
考証
[編集]実在性
[編集]『日本書紀』、『古事記』に歴史的事実と認められる伝承は少ない[1]。事績は総じて起源譚の性格が強いため史実性を疑問視する説もあったが、近年においては実在を認めることも多い[8]。『魏志倭人伝』の都市牛利を上古中国語で読んだ際、田道間守とする説もある。
生年、立太子年
[編集]『日本書紀』の垂仁天皇即位前紀によると垂仁天皇は崇神天皇29年に誕生し24才で皇太子になったとある。つまり立太子年は崇神天皇53年である。ところが崇神天皇元年二月条では、これより前に御間城姫が垂仁天皇を生んだとある。また崇神天皇48年に垂仁天皇が立太子されたとある。つまり皇太子になったのは48才以上でのことである。これらは明らかに矛盾する記述となっており、崇神紀と垂仁紀で依拠した資料が異なると推察される。
崩御の月
[編集]『日本書紀』の垂仁天皇99年7月条によると垂仁天皇は7月1日に崩じたとある。ところが景行天皇即位前紀によると99年2月に崩じたとあり、垂仁紀と景行紀で依拠した資料が異なると推察される。
倭奴国との関連
[編集]『日本書紀』で田道間守が常世の国に派遣された垂仁天皇90年を機械的に西暦に換算すると61年になる。これは倭(委)奴国王が後漢の光武帝から金印を授けられた57年に近いため、書紀の編者は垂仁天皇を倭奴国王、田道間守を大夫と考えていたことが推測される。『住吉大社神代記』によって311年を天皇の没年とすれば西晋末期の八王の乱で帰国が遅れたことが考えられる。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m 直木(1979)p.13
- ^ a b c 『日本書紀(二)』岩波書店 ISBN 9784003000427
- ^ 垂仁天皇の治世の初期に天日槍が来朝し、末期に曾孫と玄孫が活躍するのは『日本書紀』の在位年数をそのまま受け取れば問題は無いがかなり不自然である。88年条の末尾や『古事記』応神天皇段が単に「昔」と記すように天日槍の来朝はより古い時代の可能性もある。
- ^ 坂本 & 平野 2010.
- ^ “富士山本宮浅間大社:御由緒”. www.fuji-hongu.or.jp. 富士山本宮浅間大社. 2024年7月17日閲覧。
- ^ 浅間神社, 甲斐国一宮 (2022年11月3日). “神様と歴史”. 甲斐国一宮 浅間神社. 2024年7月17日閲覧。
- ^ 大日本神祇会福岡県支部: “福岡県神社誌 中巻”. dl.ndl.go.jp. 国立国会図書館. p. 80 (1945年). 2024年11月11日閲覧。
- ^ 吉村武彦「列島の文明化と律令制国家の形成(稿)」『古代学研究所紀要』第21号(2014)明治大学日本古代学研究所
参考文献
[編集]- 直木孝次郎 著「垂仁天皇」、日本歴史大辞典編集委員会 編『日本歴史大辞典第6巻 す-ち』河出書房新社、1979年11月。
- 坂本太郎、平野邦雄 監修「都怒我阿羅斯等」『日本古代氏族人名辞典』(普及版)吉川弘文館、2010年11月。ISBN 978-4642014588。
- 井上秀雄『古代朝鮮』日本放送出版協会〈NHKブックス〉、1972年。
外部リンク
[編集]- 菅原伏見東陵 - 宮内庁