堀親良
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正8年(1580年) |
死没 | 寛永14年5月13日(1637年7月5日) |
改名 | 吉千代(幼名)→孫太郎→秀家→秀成→良政→親良 |
別名 | 弥太郎(通称) |
戒名 | 東江寺殿梅也宗月大居士 |
墓所 |
東京都渋谷区広尾の東江寺 茨城県常総市飯沼弘経寺 |
官位 | 従五位下、美作守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠→家光 |
藩 | 越後蔵王堂藩主→下野真岡藩主→下野烏山藩主 |
氏族 | 堀氏 |
父母 | 父:堀秀政、母:喜多島良滋の娘 |
兄弟 | 秀治、親良、村上義忠、近藤政成 |
妻 | 浅野長政の娘・養梅院殿 |
子 |
親昌、親智、親泰、娘(日野資栄室) 養子:鶴千代 |
堀 親良(ほり ちかよし)は、安土桃山時代から江戸時代前期の大名。信濃飯田藩堀家初代。堀秀政の次男。
生涯
[編集]小田原征伐のとき、11歳で初陣を飾り、父の死後越前国に2万石を領し、天正19年(1591年)従五位下、美作守に叙任され、秀吉より羽柴氏と豊臣姓を下賜され、秀家の諱を賜る。堀直敬は秀家改名前の諱を「秀成」とするが、親良文書を一覧化した田嶋悠佑は、慶長12年(1607年)に死去した山中長俊宛の書状に秀成の署名が見られることから、同年以前に秀家から秀成へと改名したとする[1]。
その後、秀治と共に越後国に転封となり、蔵王堂に4万石を領し、うち1万石を家老の近藤重勝に分与した(のち、養子である近藤政成(堀親直の弟)が継承)。秀吉が死去すると、遺品として「助真の刀」を拝領。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは兄と共に東軍に与する。「上杉景勝本国にありなから逆謀をくはだて、斎藤・柿崎・丸田等を軍長とし、一揆の党をひきひて会津のさかひ下田村に楯籠、このとき親良みつから軍士をあいしたかへ、いとみたたかひて首級を得、すなはち、上意に達す、」(『寛永諸家系図伝』)とあるように、会津の上杉氏が越後で仕掛けた上杉遺民一揆の鎮圧に奔走する。この功により、徳川家康、秀忠から感状を賜る。感状には羽柴美作守殿とあり、この頃はまだ羽柴を称していた。戦後、家康から所領を安堵された。
慶長7年(1602年)頃、堀直政(父秀政の従兄弟で、秀政時代からの堀氏宗家の重臣)と不和になって対立し、病と称し京都伏見にあった亡父の屋敷に隠遁した。このとき、家督を養嗣子の鶴千代に譲っている。譜代の家臣を連れて京、大坂を経て紀州に入り、紀州を領していた妻の生家の浅野家に寄った。岳父の浅野幸長に身の処置について相談、駿府の家康に拝謁して、命により将軍・秀忠の家臣となった。4年勤めた後、慶長16年(1611年)、下野国真岡に1万2,000石を賜り、江戸で秀忠に拝謁する。一方、この間に堀宗家は改易処分を受けているが、出奔していた親良は連座をすることはなかった[2]。
大坂の陣では土井利勝の旗下で奮戦した。この頃、羽柴氏を廃して堀氏へ戻し、秀成の名も良政と改めた[3]。元和4年(1618年)実弟近藤政成の減封分として美濃国に5000石加増、寛永4年(1627年)下野国烏山城を賜り、烏山に2万5,000石を領した。今日知られる「親良」の名乗りが確認できるのは、烏山入封以降のことである[4]。
系譜
[編集]父母
正室
- 養梅院 - 浅野長政の娘
側室
- 近藤氏
- 若山氏
- 奥村氏
子女
養子
脚注
[編集]- ^ 田嶋(佐藤編)、2016年、P295-298
- ^ なお、親良の死去時の遺物の配分には一族の堀季郷・堀利重・堀直之(直政の子)も指名されており、一族との関係が完全に断絶した訳ではない(田嶋(佐藤編)、2016年、P305-307)。
- ^ 田嶋(佐藤編)、2016年、P298-299
- ^ 田嶋(佐藤編)、2016年、P299
参考文献
[編集]- 『寛永諸家系図伝』
- 堀直敬『堀家の歴史』堀家の歴史研究会、1967年
- 村川浩平『日本近世武家政権論』、近代文芸社、2000年。
- 田嶋悠佑「堀親良文書の基礎的研究」(佐藤博信 編『中世東国の政治と経済 中世東国論:6』(岩田書院、2016年) ISBN 978-4-86602-980-1)