堺時雄
堺 時雄(さかい ときお、旧姓:金井〈かない〉、1898年〈明治31年〉8月16日 - 1991年〈平成3年〉)は、日本の写真家。
略歴
[編集]新潟県新潟市南浜通2番町(現 新潟市中央区中大畑町)の金井写真館を経営する写真師・金井弥一の三男として出生[1]。
1919年(大正8年)3月に新潟中学校を卒業[注 1]、1922年(大正11年)3月に東京美術学校臨時写真科を卒業[注 2][注 3][注 4][注 5]、帰郷して父の金井写真館を手伝う[7][注 6]。
1922年(大正11年)12月に一年志願兵として岐阜県の各務原陸軍飛行場の飛行第2大隊偵察隊に入隊、1923年(大正12年)11月に陸軍航空兵軍曹に任官、12月に予備役に編入、1924年(大正13年)5月に飛行第2大隊に入隊、9月に召集解除、陸軍航空兵曹長に任官。1925年(大正14年)11月に東京美術学校写真科の出身者による芸術写真研究会・洋々社を結成。1926年(大正15年)3月に陸軍航空兵少尉に任官。1928年(昭和3年)1月に主婦之友社に入社、写真部主任に就任、3月に東京府東京市下谷区池ノ端茅町(現 東京都台東区池之端)の南人社に入門して刀剣鑑定術の学習を始める。5月に東京府東京市牛込区市谷左内町(現 東京都新宿区市谷左内町)に一家を構える[注 7]。仕事で目を酷使して失明の恐れがあったため1932年(昭和7年)10月に主婦之友社を退職、1934年(昭和9年)から東京府東京市芝区(現 東京都港区)で東美社アトリエを経営、1935年(昭和10年)3月に父の金井弥一が急逝したため帰郷して金井写真館の経営を引き継ぐ。12月に結婚。1938年(昭和13年)から新潟県新潟市西堀通5番町(現 新潟市中央区西堀通5番町)で堺写真工房を経営。1941年(昭和16年)7月に日中戦争のため召集令状を受け千葉県の柏陸軍飛行場の飛行第5戦隊に入隊、第15飛行場大隊整備中隊に配属、10月にフランス領インドシナのサイゴンに上陸、タイやビルマなどを転戦、1944年(昭和19年)9月に陸軍航空兵中尉に任官、1945年(昭和20年)8月にカンボジアのコンポン・チュナン飛行場で終戦、9月に陸軍航空兵大尉に任官、1946年(昭和21年)5月にサイゴンを出港、広島県の大竹港に上陸して復員、帰郷して堺写真工房の経営を再開、金井写真館の隣の邸宅(現 北方文化博物館新潟分館)で余生を過ごしていた会津八一と交流する。1950年(昭和25年)5月に再婚。1967年(昭和42年)4月に新潟県銃砲刀剣類登録審査委員に就任、1980年(昭和55年)12月に新潟県銃砲刀剣類登録審査委員を辞任[10]。
東京美術学校の生徒の時からピクトリアリズム写真(芸術写真)やストレート写真を撮影・制作していたが、戦後、そうすることはなかった[12][13]。
栄典・表彰
[編集]- 1922年(大正11年) 3月 - 平和記念東京博覧会美術館展 入賞『天真流露』[14]
- 1945年(昭和20年) 9月 1日 - 正七位[15]
- 1946年(昭和21年)10月14日 - 勲六等瑞宝章[15]
- 1981年(昭和56年)11月 5日 - 新潟県教育功労者(学術・文化部門)[16]
親族・親戚
[編集]- 芳賀矢一 - 義弟(三妹の夫)の父[17]、国文学者、東京帝国大学名誉教授。
- 山田昌一 - 義弟(四妹の夫)[注 8]、造林学者、新潟大学名誉教授。
- 中澤桂 - 姪(次妹の四女)[4]、声楽家、東京音楽大学名誉教授、瀋陽音楽学院名誉教授。
著作物
[編集]著書
[編集]- 『明治の写真師: 父 金井弥一と我が来し方』堺柳女[聞き書]、新潟明治大正文化研究会〈新潟明治大正文化研究会叢書 第1集〉、1988年。
写真
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 堺時雄(金井時雄)は3年生の時、漢文の時間に担任の先生の「金井は今日より堺姓に変った」という突然の一言に驚いて家に飛んで帰り、父から自分が大叔母(父方の祖母の妹)と1913年(大正2年)10月21日に養子縁組したことを知らされた[2]。
- ^ 臨時写真科の入学者は5名だったが、1名は成業の見込みなしとして1カ月後に退学させられた[3]。
- ^ 堺時雄は同級生の古川成俊(写真家・古川俊平の孫。先祖は福岡藩の藩医で親は佐賀県唐津市の医師。のちに東京工芸大学名誉教授)が実家から持ってきた罪人の頭蓋骨を使って撮影した『死の花(哲学)』という作品でコンクールに入選した[4]。
- ^ 堺時雄は東京美術学校に行啓に来た貞明皇后にロシア人少女の四つ切半身像をオイルプリントで作製する御前作業を行った[5]。
- ^ 堺時雄の卒業制作は日本画科の柔道部主将・久本春雄をモデルに全裸で円盤を投擲する直前のポーズを撮影した『邁進の意気』である[6]。
- ^ 森芳太郎教授から講師として残ってほしいという話もあったが、堺時雄は金井写真館を経営してほしいという父の願望を無下にできなかった[8]。
- ^ 東京帝国大学の学生であった二人の弟たちも同居した[9]。
- ^ 1955年(昭和30年)10月1日の新潟大火で焼失の危機にあった堺写真工房に駆け付け、非力にもかかわらず2階から荷物を運び下ろした[18]。
出典
[編集]- ^ 『明治の写真師: 父 金井弥一と我が来し方』65・192頁。『日本写真家事典』147頁。『日本の写真家』186頁。『新潟県 人物・人材情報リスト 2021 第2巻』812頁。
- ^ 『明治の写真師: 父 金井弥一と我が来し方』69頁。
- ^ 『明治の写真師: 父 金井弥一と我が来し方』77頁。
- ^ a b 『明治の写真師: 父 金井弥一と我が来し方』84頁。
- ^ 『明治の写真師: 父 金井弥一と我が来し方』88頁。『郷土が生んだ美の先達25人展』134頁。
- ^ 『明治の写真師: 父 金井弥一と我が来し方』95頁。
- ^ 『明治の写真師: 父 金井弥一と我が来し方』98・194頁。『郷土が生んだ美の先達25人展』134頁。『日本の写真家』186頁。『新潟県 人物・人材情報リスト 2021 第2巻』812頁。
- ^ 『明治の写真師: 父 金井弥一と我が来し方』95頁。『郷土が生んだ美の先達25人展』134頁。
- ^ 『明治の写真師: 父 金井弥一と我が来し方』105頁。
- ^ 『明治の写真師: 父 金井弥一と我が来し方』98-180・194-198頁。『郷土が生んだ美の先達25人展』134頁。『日本写真家事典』147頁。『日本の写真家』186-187頁。『新潟県 人物・人材情報リスト 2021 第2巻』812頁。
- ^ 『日本写真家事典』147頁。
- ^ 学芸員コラム⑯ 堺時雄の「芸術」写真を知っていますか。 - 新潟県立近代美術館
- ^ 『新潟日報』2023年1月25日付朝刊、21面。
- ^ 『明治の写真師: 父 金井弥一と我が来し方』95-96・194頁。『郷土が生んだ美の先達25人展』134頁。『日本写真家事典』147頁。『日本の写真家』186頁。『新潟県 人物・人材情報リスト 2021 第2巻』812頁。
- ^ a b 『明治の写真師: 父 金井弥一と我が来し方』196頁。
- ^ 『明治の写真師: 父 金井弥一と我が来し方』180・198頁。『郷土が生んだ美の先達25人展』134頁。
- ^ 『明治の写真師: 父 金井弥一と我が来し方』81・107頁。
- ^ 『明治の写真師: 父 金井弥一と我が来し方』155頁。
参考文献
[編集]- 『明治の写真師: 父 金井弥一と我が来し方』堺時雄[著]、堺柳女[聞き書]、新潟明治大正文化研究会〈新潟明治大正文化研究会叢書 第1集〉、1988年。
- 「堺時雄」『郷土が生んだ美の先達25人展』134頁、新潟県美術博物館[編]、新潟県美術博物館、1992年。
- 「堺時雄」『日本写真家事典 東京都写真美術館所蔵作家』147頁、三橋純予[著]、東京都写真美術館[執筆・監修]、淡交社〈東京都写真美術館叢書〉、2000年。
- 「堺時雄」『日本の写真家 近代写真史を彩った人と伝記・作品集目録』186-187頁、東京都写真美術館[監修]、日外アソシエーツ[編]、日外アソシエーツ、2005年。
- 「堺時雄」『新潟県 人物・人材情報リスト 2021 第2巻』812頁、日外アソシエーツ[編]、日外アソシエーツ、2020年。
- 「堺時雄 ピクトリアリズムへの招待 芸術写真 続けていたなら」「展覧会へようこそ」『新潟日報』2023年1月25日付朝刊、21面、藤田裕彦[著]、新潟日報社、2023年。
関連文献
[編集]- 「東京都写真美術館収蔵の堺時雄関係資料について (PDF) 」『東京都写真美術館 紀要』第4号、39-70頁、金子隆一[著]、東京都写真美術館、2004年。
- 「堺時雄関係作品資料について I (PDF) 」『新潟県立万代島美術館 研究紀要』第1号、1-25頁、藤田裕彦[著]、新潟県立万代島美術館、2006年。
- 「忘れ得ぬ風貌」『青陵回顧録』83-88頁、堺時雄[著]、新潟県立新潟高等学校、1952年。
- 「村上藩家老の手文庫」『郷土新潟』第4号、42-48頁、堺時雄[著]、新潟郷土史研究会、1964年。
- 「越後奇人現代版」『郷土新潟』第10号、33-39頁、堺時雄[著]、新潟郷土史研究会、1968年。
- 「鎧の文化財的価値」『観賞 二十周年記念』8-10頁、堺時雄[著]、新潟文化財観賞会、1980年。
- 『句集 柳絮』堺柳女[著]、新潟俳句会〈新潟俳句会叢書 第14集〉、1988年。