コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

増井敬次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

増井 敬次郎(ますい けいじろう、1872年3月28日明治5年2月20日[1] - 1963年昭和38年)9月2日[1])は、日清戦争後から大正期の大日本帝国海軍軍人。海機(2期)海大機関科出身。海軍機関中将海軍機関学校教官、佐世保呉海軍工廠造機部長、海軍艦政本部部長などを歴任した。最終階級は海軍中将。功四級

略歴

[編集]

静岡県出身[2]静岡県尋常中学校を経て[3]1895年(明治28年)、海軍機関学校(2期)卒業[1][出典無効]、海軍少機関士[注釈 1]候補生、吉野乗組[1][出典無効]1896年(明治29年)、葛城乗組[1][出典無効]

1897年(明治30年)1月、海軍少機関士、7月、金剛乗組[1][出典無効]1898年(明治31年)、海軍中機関士、八重山乗組[1][出典無効]1899年(明治32年)2月、水雷術練習所学生、3月、厳島分隊長心得、7月、敷島分隊長心得/回航委員(英国出張)、9月、海軍大機関士、敷島分隊長[1][出典無効]1900年(明治33年)、帰着[1][出典無効]

1901年(明治34年)5月、海軍兵学校機関術教官/鎮遠乗組、8月、海兵機関術教官/筑波機関長/分隊長[1][出典無効]1902年(明治35年)、海軍大学校機関科短期学生[1][出典無効]1903年(明治36年)7月、海大機関科長期学生、12月、敷島分隊長[1][出典無効]

1905年(明治38年)1月、海軍機関少監[注釈 2]、11月、海大機関科甲種学生[1][出典無効]1906年(明治39年)1月、海軍機関少佐、7月、横須賀海軍工廠造機部部員、12月、横工廠造機部部員/検査官[1][出典無効]1908年(明治41年)、海軍機関中佐[1][出典無効]1910年(明治43年)、駐英造兵造船監督官[2]1913年(大正2年)8月、帰朝、12月、海軍機関大佐[2]1914年(大正3年)、横工廠造機部部員/海軍機関学校教官[1][出典無効][2]1915年(大正4年)、佐世保海軍工廠造機部長[2]

1919年(大正8年)、海軍機関少将、呉海軍工廠造機部長[2]1921年(大正10年)、海軍艦政本部第五部長[2]1923年(大正12年)8月、海軍艦政本部出仕海軍艦政本部、12月、海軍機関中将海軍艦政本部、同月、待命[2]1924年(大正13年)2月、予備役[2]、12月、海軍中将[1][出典無効]1934年(昭和9年)、後備役[1][出典無効]1939年(昭和14年)、退役[1][出典無効]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[4]

親族

[編集]

脚注

[編集]

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 増井敬次郎 海機2期 参拾壱 頁
  2. ^ a b c d e f g h i 外山 1981, 259頁.
  3. ^ 『静中・静高同窓会会員名簿』平成15年度(125周年)版 43頁。
  4. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」42頁。

注釈

[編集]
  1. ^ 「海軍少機関士」は明治39(1906)年 、海軍機関少尉と改称される。
  2. ^ 「海軍機関少監」は明治39(1906)年 、海軍機関少佐と改称される。

参考文献

[編集]
  • 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500034