増田忠俊
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名前 | ||||||
愛称 | マス[1]、焼肉屋 | |||||
カタカナ | マスダ タダトシ | |||||
ラテン文字 | MASUDA Tadatoshi | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1973年12月25日(50歳) | |||||
出身地 | 静岡県庵原郡蒲原町[2] | |||||
身長 | 171cm[3] | |||||
体重 | 70kg[3] | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF[3] | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
1989-1991 | 静岡学園高校 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1992-2000 | 鹿島アントラーズ | 148 | (27) | |||
2000-2001 | FC東京 | 23 | (1) | |||
2002 | ジェフユナイテッド市原 | 14 | (2) | |||
2003-2005 | 柏レイソル | 47 | (2) | |||
2006 | 大分トリニータ | 3 | (0) | |||
通算 | 235 | (32) | ||||
代表歴2 | ||||||
1998 | 日本 | 1 | (0) | |||
監督歴 | ||||||
2008-2009 | HOYO ELAN大分 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。2006年12月31日現在。 2. 1998年2月15日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
増田 忠俊(ますだ ただとし、1973年12月25日 - )は、静岡県庵原郡蒲原町[2](現 静岡市清水区蒲原)出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダー(MF)。元日本代表。PRISM所属。
来歴
[編集]1992年に静岡学園高校から創立直後の鹿島アントラーズに加入。1994年からトップチームで出場するようになり、ドリブルや二列目からの飛び出し等、チャンスメーカーとして活躍。多くのタイトル獲得に貢献した[4]。また1998年には日本代表に選出され、2月19日のオーストラリア戦で代表デビューを飾った[2]。また3月4日のダイナスティカップの香港選抜戦に出場、前半40分に得点を決めている(相手が選抜チームのため、国際Aマッチ得点とは認められず)。しかし同年8月、Jリーグ1st第17節広島戦で右両下腿骨を複雑骨折[2][4][5]。長期のリハビリを経て翌1999年9月に復帰した[2]。
2000年は開幕からコンディションを維持していたが[2]、試合終盤に入ってからの途中出場ばかりで(小笠原満男との交代が多かった)[6] 持ち味を発揮する間が無かったことから[7]、自身の向上のため[8] 移籍を決意[2]。
2000年6月よりFC東京へ期限付き移籍。シーズン途中、しかも自身初の移籍だったが、同じく鹿島から移籍加入した内藤就行の存在もあって早々とチームにフィット[9]。負傷欠場した佐藤由紀彦に代わって右サイドハーフに配されると[10]、的確なボール保持で[11] 中盤のアクセントとなり[2] 攻撃のリズムを変えるオプションとして貢献[1]。右サイドバック内藤との好連携も見せた[12]。大熊清監督からは、突破力では佐藤に劣るもののFWへのパスによるチャンスメイクで勝ると評価され、相手の出方や味方FWの調子を加味して使い分けられた[10][11]。2001年に完全移籍加入したが[13]、この年は佐藤が重用されたために出場機会を減らした[14]。
2002年、ジェフユナイテッド市原へ完全移籍[14]。4年ぶりとなるリーグ戦複数得点を挙げた。2003年からは柏レイソルへ移籍加入[15]。3シーズン奮戦を続けたが、チームは2005年にJ2降格を喫し同年限りで退団。
2006年、大分トリニータに移籍[16]。20歳頃から続いていた[5] という腰痛に苦しめられる中でも[4] 試合に向けて念入りに調整し、チーム最年長選手としてサッカーへ取り組む姿勢を若手選手へ示した[5]。同年11月20日に現役引退を表明[17]。
2007年3月から、スーパーJチャンネルおおいたのコーナーで大分トリニータの試合分析を行った他、大分トリニータスクールコーチ、CSのサッカー中継(主に大分銀行ドーム開催試合を担当)解説者などを務めている。
2008年3月よりHOYO Atletico ELAN(現:ヴェルスパ大分)の監督に就任したが、翌2009年9月に成績不振を理由に退任した[18]。
2014年、自身が代表を務めるサッカースクール「M.S.S.」を発足。
所属クラブ
[編集]- 蒲原町立蒲原西小学校[16]
- 蒲原町立蒲原中学校[3]
- 静岡学園高等学校
- 1992年 - 2000年 鹿島アントラーズ
- 2001年 FC東京
- 2002年 ジェフユナイテッド市原
- 2003年 - 2005年 柏レイソル
- 2006年 大分トリニータ
個人成績
[編集]国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1992 | 鹿島 | - | J | - | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
1993 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |||
1994 | 26 | 6 | 1 | 0 | 0 | 0 | 27 | 6 | |||
1995 | 35 | 6 | - | 4 | 1 | 39 | 7 | ||||
1996 | 29 | 4 | 13 | 1 | 3 | 1 | 45 | 6 | |||
1997 | 14 | 23 | 5 | 10 | 3 | 5 | 2 | 38 | 10 | ||
1998 | 16 | 4 | 4 | 3 | 0 | 0 | 20 | 7 | |||
1999 | J1 | 5 | 2 | 3 | 0 | 2 | 0 | 10 | 2 | ||
2000 | 14 | 0 | 0 | 0 | - | 14 | 0 | ||||
FC東京 | 13 | 13 | 1 | 2 | 0 | 1 | 0 | 16 | 1 | ||
2001 | 18 | 10 | 0 | 2 | 0 | 1 | 0 | 13 | 0 | ||
2002 | 市原 | 15 | 14 | 2 | 6 | 2 | 4 | 1 | 24 | 5 | |
2003 | 柏 | 12 | 13 | 0 | 4 | 0 | 2 | 0 | 19 | 0 | |
2004 | 19 | 2 | 3 | 0 | 0 | 0 | 22 | 2 | |||
2005 | 15 | 0 | 3 | 1 | 1 | 0 | 19 | 1 | |||
2006 | 大分 | 14 | 3 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 7 | 0 | |
通算 | 日本 | J1 | 235 | 32 | 55 | 10 | 23 | 5 | 313 | 47 | |
総通算 | 235 | 32 | 55 | 10 | 23 | 5 | 313 | 47 |
- その他の公式戦
- 1996年
- サントリーカップ 2試合0得点
- 1997年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 1998年
- スーパーカップ 1試合0得点
- 2004年
- J1・J2入れ替え戦 2試合0得点
- 2005年
- J1・J2入れ替え戦 1試合0得点
- 国際大会
- アジアクラブ選手権 7試合1得点
タイトル
[編集]クラブ
[編集]- 鹿島アントラーズ
- J1リーグ:1996年、1998年
- Jリーグカップ:1997年
- 天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会:1997年
- FUJI XEROX SUPER CUP:1997年、1998年、1999年
代表歴
[編集]試合数
[編集]- 国際Aマッチ 1試合 0得点[15] (1998年)
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1998 | 1 | 0 | 2 | 0 | 3 | 0 |
通算 | 1 | 0 | 2 | 0 | 3 | 0 |
出場
[編集]No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
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1. | 1998年02月15日 | アデレード | オーストラリア | ○3-0 | 岡田武史 | 国際親善試合 |
指導歴
[編集]- 大分トリニータ スクールコーチ
- 2007年 - 2009年9月 HOYO Atletico ELAN
- 2007年 - 2008年3月 コーチ
- 2008年 - 2009年9月 監督
- 大平山AFC 特別コーチ[19]
- FUT6 テクニカルコーチ[20]
脚注
[編集]- ^ a b 『FC東京ファンブック2001』毎日新聞社、2001年、32-33頁。
- ^ a b c d e f g h “VOICE! No.775 (1/5)”. 2001年2月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月5日閲覧。 WEBサッカーマガジン (2000年8月)
- ^ a b c d 登録選手一覧表 Jリーグ (2006年12月8日)
- ^ a b c “元日本代表MF増田が今季限りで引退”. 2006年11月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月5日閲覧。 日刊スポーツ (2006年11月13日)
- ^ a b c “大分MF増田 / スポッ人ライト”. 2007年11月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月5日閲覧。 日刊スポーツ (2006年12月11日)
- ^ 選手出場記録 Jリーグ (2000年5月27日)
- ^ “VOICE! No.775 (5/5)”. 2001年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月5日閲覧。 WEBサッカーマガジン (2000年8月)
- ^ “VOICE! No.775 (4/5)”. 2001年2月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月5日閲覧。 WEBサッカーマガジン (2000年8月)
- ^ “VOICE! No.775 (2/5)”. 2001年2月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月5日閲覧。 WEBサッカーマガジン (2000年8月)
- ^ a b 選手出場記録 Jリーグ (2000年11月26日)
- ^ a b 荒川裕治 (2001). FC東京の挑戦. 小学館. p. 206
- ^ “VOICE! No.775 (3/5)”. 2001年2月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月5日閲覧。 WEBサッカーマガジン (2000年8月)
- ^ “増田忠俊選手 移籍決定のお知らせ”. 2002年3月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年9月29日閲覧。 FC東京 (2000年12月19日)
- ^ a b “増田忠俊選手 移籍決定のお知らせ”. 2002年3月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年9月29日閲覧。 FC東京 (2002年1月10日)
- ^ a b 増田忠俊選手 移籍加入のお知らせ 柏レイソル (2003年1月22日)
- ^ a b 増田 忠俊選手が大分トリニータに移籍 柏レイソル (2006年1月22日)
- ^ “MF増田忠俊選手 現役引退のお知らせ”. 2007年8月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月5日閲覧。 大分トリニータ (2006年11月20日)
- ^ チームの歴史 ヴェルスパ大分、2018年4月3日閲覧
- ^ スペシャルコーチ 大平山AFC
- ^ 監督・スタッフ紹介 FUT6
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 増田忠俊 - National-Football-Teams.com
- 増田忠俊 - FootballDatabase.eu
- 増田忠俊 - WorldFootball.net
- 増田忠俊 - Transfermarkt.comによる選手データ
- 増田忠俊 - J.League Data Siteによる選手データ
- 増田 忠俊 (@Masunald) - X(旧Twitter)
- 増田 忠俊 (tadatoshi.masuda) - Facebook
- 公式ブログ (2007年3月 - 2009年10月)
- M.S.S.
- 指導者への道 FILE 007 増田忠俊選手 - ウェイバックマシン(2007年8月23日アーカイブ分) - Jリーグ選手協会 (2007年2月9日)
- 専属メンバープロフィール - パスインターナショナル
- プロフィール - Jリーグ選手OB会
- プロフィール (2001年版) - ウェイバックマシン(2001年12月14日アーカイブ分) - FC東京
- プロフィール (2005年版) - ウェイバックマシン(2006年1月9日アーカイブ分) - 柏レイソル
- プロフィール (2006年版) - ウェイバックマシン(2006年12月3日アーカイブ分) - 大分トリニータ
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