大伴弟麻呂
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(大伴乙麻呂から転送)
時代 | 奈良時代 - 平安時代初期 |
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生誕 | 天平3年(731年)[1]? |
死没 | 大同4年5月28日(809年7月14日) |
別名 | 乙麻呂 |
官位 |
従三位東宮傅、征夷大将軍 勲二等 |
主君 | 光仁天皇→桓武天皇 |
氏族 | 大伴氏 |
父母 |
父:大伴古慈斐 母:藤原不比等娘・殿刀自 |
兄弟 | 弟麻呂、益立 |
子 | 東人、伴宇治人、伴勝雄 |
大伴 弟麻呂(おおとも の おとまろ)は、奈良時代から平安時代初期にかけての公卿・武人。大和守・大伴古慈斐の子[2]。史料に見える初の征夷大将軍。官位は従三位・東宮傅。勲等は勲二等。
経歴
[編集]光仁朝末の宝亀10年(779年)従六位上から三階昇進して従五位下に叙爵し、翌宝亀11年(780年)衛門佐に任ぜられる。
天応元年(781年)従五位上・左衛士佐に叙任される一方、同年に即位した桓武天皇の生母である皇太夫人・高野新笠のために中宮職が設置された際に、その次官(中宮亮)を兼ねている。延暦元年(782年)常陸介、翌延暦2年(783年)征東副将軍と一時東国の地方官を務める。延暦6年(787年)右中弁次いで左中弁と京官に復帰し、延暦7年(788年)正五位下に昇叙され皇后宮亮を兼ねた。
延暦10年(791年)従四位上・征夷大使に叙任されるが、延暦11年(792年)11月に一旦征夷大使の辞表を提出し、翌延暦12年(793年)2月には征夷副使・坂上田村麻呂も辞表を提出している。しかし、結局両方とも認められなかったらしく、延暦13年(794年)正月に弟麻呂は征夷大将軍として節刀を賜与され、同年6月には副将軍の坂上田村麻呂が蝦夷征討で大きな戦果を挙げる。延暦14年(795年)正月に節刀を返上して、2月には征討の功労により従三位・勲二等に叙せられた。
その後、蝦夷征討の任務は田村麻呂(延暦16年(797年)征夷大将軍)が取って代わり、弟麻呂は東宮傅・治部卿と京官を歴任する。延暦25年(806年)老いて衰えたことを理由に辞職を願い出て許される。大同4年(809年)5月28日薨去。享年79。最終官位は散位従三位。
官歴
[編集]『六国史』による。
- 時期不詳:従六位上
- 宝亀10年(779年) 1月19日:従五位下
- 宝亀11年(780年) 3月17日:衛門佐
- 天応元年(781年) 5月17日:中宮亮(皇太夫人・高野新笠)。5月25日:兼左衛士佐。8月12日:従五位上
- 天応2年(782年) 6月20日:常陸介
- 延暦2年(783年) 11月12日:兼征東副将軍
- 延暦6年(787年) 2月25日:右中弁。9月17日:左中弁
- 延暦7年(788年) 2月28日:兼皇后宮亮(皇后・藤原乙牟漏)。11月25日:正五位下
- 延暦9年(790年) 3月26日:兼河内守
- 延暦10年(791年) 1月7日:従四位下。7月13日:征夷大使
- 延暦13年(794年) 1月1日:征夷大将軍として節刀を賜与
- 延暦14年(795年) 1月29日:節刀を返上。2月7日:従三位、勲二等
- 時期不詳:東宮傅
- 延暦18年(799年) 9月10日:兼治部卿
- 延暦25年(806年) 2月20日:致仕
- 大同4年(809年) 5月28日:薨去(散位従三位勲二等)。