大内弘直
表示
時代 | 鎌倉時代末期 - 南北朝時代 |
---|---|
生誕 | 不詳 |
死没 | 延元元年/建武3年7月7日(1336年8月14日) |
別名 | 新介[1][2]、介三郎[1] |
戒名 | 瑞雲寺海浄智 |
墓所 | 宝珠山瑞雲寺(現在の山口県山口市龍福寺) |
氏族 | 多々良姓大内氏 |
父母 | 父:大内重弘 |
兄弟 | 弘幸、弘直、師直 |
子 | 隆直 |
大内 弘直(おおうち ひろなお)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の周防国の武将。大内氏第7代当主大内重弘の子[1]。第8代当主、弘幸の弟[1]。新介[1][2]、介三郎[1]と称した。
建武2年(1335年)12月、東へ行き新田義貞に従って足利尊氏と戦う[2]。その後周防国に帰国するが、足利尊氏の九州下向に際して摂津助清尊、教乗、小笠原長光らと語らって挙兵する。摂津助清尊らは敷山城(現在の山口県防府市牟礼敷山)に籠城して足利勢と戦うも城は落城して自害、弘直も延元元年(1336年)7月7日死去[1][3]。『大内系図』では石見国益田大山で上野頼兼と戦って戦死したとある。
菩提寺は周防国吉敷郡上宇野令白石の宝珠山瑞雲寺(現在の山口県山口市龍福寺)、法名は瑞雲寺海浄智[3][4]。
関連項目
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]外部リンク
[編集]- “周防・敷山城(城郭放浪記)”. PEI. 2017年1月15日閲覧。
- 『敷山城』 - コトバンク
- “周防太平記・敷山城の戦い”. UNIC.LTD.. 2017年1月15日閲覧。
- 近藤清石『大内氏實録』中元壮作、宮川臣吉、山口県山口町、1885年10月28日。 NCID BA33800345。NDLJP:780384