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大木勝年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大木 勝年
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 千葉県東金市
生年月日 (1949-03-17) 1949年3月17日(75歳)
身長
体重
174 cm
74 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1970年 ドラフト16位
初出場 1971年
最終出場 1972年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

大木 勝年(おおき かつとし、1949年3月17日[1] - )は、千葉県東金市[1][2]出身の元プロ野球選手。ポジションは投手

来歴・人物

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東金市の農家に生まれ[3]成東高校では[1]1966年夏の甲子園千葉県予選準々決勝で、千葉工商中山孝一と投げ合い0-2で完封負け、甲子園には出場できなかった。高校、大学の1年下に中村勝広がいる。早稲田大学へ進学[1]。早大には1年上に小坂敏彦安田猛(ヤクルトでも同僚)という好投手がおり、東京六大学野球リーグでは入学後3年間下積みを続ける。しかし4年生時には、同期のエース久保陽二(高松一高監督)とともに活躍。

1970年春季リーグに2勝1敗、防御率0.73(リーグ1位)、秋季リーグにも2勝3敗、防御率1.07(リーグ2位)を記録した。春は早慶戦で延長15回を完封引き分け[3]、秋季リーグでは東大との2回戦で9連続奪三振という連盟新記録を樹立し[1]、一躍脚光を浴びた。リーグ通算17試合登板、4勝4敗。

1970年ドラフト会議ヤクルトアトムズから16位指名を受け入団[1][2]。社会人野球に内定していたこともあり、早大の選手でありながら全球団ドラフトの最後の指名での入団に話題が集まる。1971年にはイースタン・リーグで防御率第1位投手賞を獲得[2]、ベストナインにも選出された。同年5月31日には広島を相手に一軍初先発を果たすが、1回に連続安打を浴び、1死も取れずに降板したた。1972年6月18日巨人を相手にリリーフで登板、2回4自責点ながらプロ初勝利をあげる。

1974年引退した[2]。引退後はヤクルト本社勤務を経て、1983年ヤクルト球団のフロントに入る[1]2010年3月18日、常務取締役に昇格。2012年3月22日、退任した[4]

選手としての特徴

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サイドに近いアンダースローからの、ストレート、スライダーカーブシュートを武器とした。ストレートにはスピードがあり、シュートの切れ、制球力に優れるが、変化球の角度にやや甘さがあった。

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1971 ヤクルト 5 1 0 0 0 0 0 -- -- ---- 21 5.1 2 1 0 0 0 2 0 0 3 1 1.80 0.38
1972 15 1 0 0 0 1 0 -- -- 1.000 92 20.1 21 3 11 0 1 9 0 0 11 11 4.95 1.57
通算:2年 20 2 0 0 0 1 0 -- -- 1.000 113 25.2 23 4 11 0 1 11 0 0 14 12 4.15 1.32

背番号

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  • 24 (1971年 - 1974年)

脚注

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  1. ^ a b c d e f g 村瀬秀信『ドラフト最下位』角川書店、2019年9月、86頁。 
  2. ^ a b c d プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、98ページ
  3. ^ a b 神宮球場ガイドブック2007年春号「神宮球場から翔び立ったプロ野球のスターたち」越智正典
  4. ^ 役員及び役員管掌業務の変更について 東京ヤクルトスワローズ ・2012年3月22日

関連項目

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外部リンク

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