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大村純顕

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大村純顕
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文政5年11月5日1822年12月17日
死没 明治15年(1882年4月2日
改名 伊織・民部(幼名)、純顕
戒名 慈徳院温厚愨翁日栄大居
墓所 長崎県大村市本経寺
官位 従五位下丹後守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉家慶
肥前大村藩
氏族 大村氏
父母 大村純昌福田頼之の妹・仙
兄弟 純鑑純徴純享純顕阿部正備道純松平乗懿正室、相良長福正室、高木正功小出英教孝純純熈九鬼隆能室、植村家興
正室溝口直諒の娘・菊姫
継室秋田肥季の養女・セイ
松前徳広婚約者、純一浅田安尚室、大村泰室、岐丸、武純
養子純熈
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大村 純顕(おおむら すみあき)は、肥前国大村藩の第11代藩主

生涯

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文政5年(1822年)11月5日、第10代藩主・大村純昌の4男として玖島城で生まれた。天保7年(1836年)11月23日、父の隠居家督を継いだ。

藩を挙げて職制改革・知行制改革、商業流通統制など、様々な藩政改革を行なっていたが、病気を理由に弘化3年(1846年12月に隠居し、翌弘化4年(1847年)2月21日に同母弟で養子の純熈に家督を相続させた。同年3月5日、純顕は病を理由に幕府に帰郷を願い、7日に許可が下りたため15日に江戸を出発して、翌月27日に大村に到着、隠居生活に入った。

明治15年(1882年)1月に純熈が死去し、4月2日に純顕も死去した。享年61。

系譜

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父母

正室、継室

子女

養子

脚注

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  1. ^ 純熈養妹。
  2. ^ のち大村騒動(小路騒動)に連座し自害。
  3. ^ 島津珍彦男爵の次男。

注釈

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  1. ^ 1909年に男爵。武純の長男大村純英が本家である大村伯爵家を相続した。武純の分家男爵家は純英の妹・常子の婿養子純久[3]が相続した。