大道寺繁禎
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時代 | 江戸時代後期 - 大正時代 |
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生誕 | 弘化元年(1844年) |
死没 | 大正8年(1919年) |
別名 | 儔之進、族之助、族 |
墓所 | 弘前市の耕春山宗徳寺 |
主君 | 津軽信順 |
藩 | 陸奥弘前藩 |
氏族 | 大道寺氏(隼人家) |
父母 | 大道寺順正、母:美武 |
大道寺 繁禎(だいどうじ しげよし)は、江戸時代後期の弘前藩士。明治期の実業家、政治家。
生涯
[編集]文久2年(1862年)、家督1200石を継ぎ、大寄合、側役、学校惣司などを経て家老となった。明治元年(1867年)の戊辰戦争の際には青森口軍事総轄、戦後は権大参事、郡長、執政などで活躍した。明治6年(1873年)には区長となった。
その後も明治12年の県会議員就任を始め、南津軽郡郡長、中津軽郡長など地方政界で活躍した。実業家としても活躍し、第五十九銀行(現青森銀行)の頭取、農牧社や弘前電燈の社長を務めた。特に弘前農具会社(現角弘)の設立は有名である。明治40年(1907年)には弘前市立図書館長となった。
人物
[編集]病弱であった幼少のころから学問を好んだ。特に漢学、和歌を好み、楸舎、楸園などと称した。慶応4年に江戸に出て、近衛忠煕や佐々木弘網に師事した。高崎正風や阪正臣とも親交があった。「陸奥史談会」の設立や歌道の奨励により、数百を超える弟子がいたという。清廉な人物で、公共事業に私財を投入し、「清水居」と名付けた屋敷で一生を送った。
1906年(明治39年)に開かれた「藩祖三百年祭」では実行委員長を務め、弘前教育会の求めに応じて初代「弘前市民の歌」を作詞している。
参考文献
[編集]- 「青森県人名大事典」[1]1969年、東奥日報社