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太田秀穂

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太田秀穂

太田 秀穂(おおた ひでお、1874年明治7年)12月21日[1]- 1950年昭和25年)12月23日[1])は、日本教育者

経歴

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茨城県出身。太田茂兵衛の四男。1898年(明治31年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業し、さらに大学院で学んだ[2]新潟県新潟師範学校教諭、山梨県師範学校校長、新潟県高田師範学校校長、長野県師範学校校長を歴任[2]1912年(明治45年)、朝鮮総督府視学官に転じ[2]、さらに京城女子高等普通学校校長も兼ねた[3]1917年大正6年)、佐賀県師範学校校長となり、1919年(大正6年)には台湾総督府視学官に転じ、翌年には台湾総督府台北師範学校も兼ねた[3]

1923年(大正12年)からは多摩少年院院長を務めた[2]1934年(昭和9年)に退官した後は、八王子中学校校長に就任した[2]

親族

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いずれも外交官の太田一郎太田三郎太田正己は子[4][5]。長女・百合子は副島民雄、次女・さくら子は岩崎良三に嫁いだ[6][7]

脚注

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  1. ^ a b 20世紀日本人名事典 2004.
  2. ^ a b c d e 人事興信録 1939.
  3. ^ a b 帝国大学出身録 1922, p. 355.
  4. ^ 教育心理研究 13(7) 東京文理科大学心理学教室 編 (培風館, 1938-07)
  5. ^ 財界展望 23(4)(271) (財界展望新社, 1979-04)
  6. ^ 『人事興信録 第17版 上』人事興信所、1953年、そ4頁。
  7. ^ 『人事興信録 第16版 上』人事興信所、1951年、い118頁。

参考文献

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  • 原田登編『帝国大学出身録』帝国大学出身録編輯所、1922年。 
  • 人事興信所編『人事興信録 第12版(上)』人事興信所、1939年。 
  • 『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ、2004年。 
公職
先代
(新設)
日本の旗 多摩少年院長
1923年 - 1934年
次代
小野五郎
先代
隈本繁吉
日本の旗 台湾総督府台北師範学校長
1919年 - 1922年
次代
志保田鉎吉
先代
森山辰之助
佐賀県師範学校長
1917年 - 1919年
次代
副島松一
先代
桑原護一
日本の旗 京城女子高等普通学校
1914年 - 1917年
次代
滋賀荘三郎
先代
柴垣則義
長野県師範学校長
1911年 - 1912年
次代
星菊太
先代
校長事務取扱
中山文雄
新潟県高田師範学校長
1905年 - 1911年
次代
小柳三郎
先代
小野恒剛
山梨県師範学校長
1900年 - 1905年
次代
安藤喜一郎
その他の役職
先代
(新設)
八王子中学校
1935年 - 1945年
次代
市川英作