姉小路実世
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時代 | 鎌倉時代初期 - 中期 |
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生誕 | 元久元年(1204年)[1] |
死没 | 文永元年11月1日(1264年11月21日) |
別名 | 正字:實世 |
官位 | 正二位、権中納言 |
主君 | 土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇 |
氏族 | 姉小路家(閑院流) |
父母 | 父:姉小路公宣、母:藤原兼光の娘 |
兄弟 | 実世、実文、実尚 |
妻 | 藤原定輔の娘 |
子 | 公綱、公紹、後嵯峨天皇宮人、小倉公雄室、中山基雅室 |
姉小路 実世(あねがこうじ さねよ)は、鎌倉時代初期から中期にかけての公卿。権大納言・姉小路公宣の長男。官位は正二位・権中納言。姉小路家(閑院流)2代当主。
経歴
[編集]承元2年(1208年)従五位下に叙爵し、建保2年(1214年)侍従に任ぜられる。建保5年(1217年)従五位上に進み、阿波介・左近衛少将を歴任する。
承久3年(1221年)正五位下、続けて従四位下に昇る。貞応元年(1222年)左近衛中将に転じ、翌貞応2年(1223年)従四位上・近江権守に叙任される。嘉禄2年(1226年)皇太后権亮を兼ね、翌嘉禄3年(1227年)正四位下・蔵人頭に進む。寛喜2年(1230年)参議に任ぜられ公卿に列し、翌寛喜3年(1231年)阿波権守を兼任。寛喜4年(1232年)従三位に叙された。
文暦2年(1235年)正三位・権中納言に叙任される。嘉禎3年(1237年)従二位に進む。暦仁2年(1239年)正二位に叙されるが、翌仁治元年(1240年)停任され、正嘉元年(1257年)出家。文永元年(1264年)61歳で薨去。
寛喜元年(1229年)10月に火災が発生し、実世の家が焼失[2]。さらに寛喜3年(1231年)には嫡男の公綱が卒去するなど不幸に見舞われた。実世も仁治元年(1240年)に不仕によって停任され、そのまま出家した。そのため、姉小路家の当主は弟の実尚が受け継ぐこととなった。
官歴
[編集]※以下、『公卿補任』の記載に従う。
- 承元2年(1208年)11月14日:従五位下に叙爵。
- 建保2年(1214年)正月14日:侍従に任ず。
- 建保5年(1217年)正月2日:従五位上に叙す。
- 建保6年(1218年)正月13日:阿波介に任ず。
- 建保7年(1219年)正月22日:左近衛少将に任ず。
- 承久3年(1221年)正月13日:正五位下に叙す(臨時)。11月29日(1222年1月12日):従四位下に叙す。少将如元。
- 貞応元年(1222年)11月15日:左近衛中将に転ず。
- 貞応2年(1223年)正月27日:近江権守を兼ぬ。3月15日:従四位上に叙す(中宮入内。父讓)。
- 嘉禄元年(1225年)7月24日:復任す(父)。
- 嘉禄2年(1226年)8月14日:皇太后権亮を兼ぬ。
- 嘉禄3年(1227年)正月5日:正四位下に叙す(臨時)。4月7日:蔵人頭に補す。
- 寛喜2年(1230年)正月4日:参議に任ず。左中将如元。
- 寛喜3年(1231年)正月29日:阿波権守を兼ぬ。
- 寛喜4年(1232年)正月5日:従三位に叙す(臨時)。
- 文暦2年(1235年)正月30日:正三位に叙す。8月30日:権中納言に任ず。
- 嘉禎3年(1237年)正月30日:勅授。9月15日:従二位に叙す。
- 暦仁2年(1239年)正月5日:正二位に叙す。
- 仁治元年(1240年)9月26日:停任。
- 正嘉元年(1257年)8月:出家。
- 文永元年(1264年)11月1日:薨去。享年61。または60。