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姉小路実世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
姉小路実世
時代 鎌倉時代初期 - 中期
生誕 元久元年(1204年[1]
死没 文永元年11月1日1264年11月21日
別名 正字:實世
官位 正二位権中納言
主君 土御門天皇順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇四条天皇
氏族 姉小路家(閑院流)
父母 父:姉小路公宣、母:藤原兼光の娘
兄弟 実世実文実尚
藤原定輔の娘
公綱、公紹、後嵯峨天皇宮人小倉公雄室、中山基雅
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姉小路 実世(あねがこうじ さねよ)は、鎌倉時代初期から中期にかけての公卿権大納言姉小路公宣の長男。官位正二位権中納言姉小路家(閑院流)2代当主。

経歴

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承元2年(1208年従五位下叙爵し、建保2年(1214年侍従に任ぜられる。建保5年(1217年)従五位上に進み、阿波介左近衛少将を歴任する。

承久3年(1221年正五位下、続けて従四位下に昇る。貞応元年(1222年)左近衛中将に転じ、翌貞応2年(1223年)従四位上・近江権守に叙任される。嘉禄2年(1226年皇太后権亮を兼ね、翌嘉禄3年(1227年正四位下蔵人頭に進む。寛喜2年(1230年参議に任ぜられ公卿に列し、翌寛喜3年(1231年)阿波権守を兼任。寛喜4年(1232年従三位に叙された。

文暦2年(1235年正三位・権中納言に叙任される。嘉禎3年(1237年従二位に進む。暦仁2年(1239年)正二位に叙されるが、翌仁治元年(1240年)停任され、正嘉元年(1257年)出家。文永元年(1264年)61歳で薨去。

寛喜元年(1229年)10月に火災が発生し、実世の家が焼失[2]。さらに寛喜3年(1231年)には嫡男の公綱が卒去するなど不幸に見舞われた。実世も仁治元年(1240年)に不仕によって停任され、そのまま出家した。そのため、姉小路家の当主は弟の実尚が受け継ぐこととなった。

官歴

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※以下、『公卿補任』の記載に従う。

  • 承元2年(1208年)11月14日:従五位下に叙爵。
  • 建保2年(1214年)正月14日:侍従に任ず。
  • 建保5年(1217年)正月2日:従五位上に叙す。
  • 建保6年(1218年)正月13日:阿波介に任ず。
  • 建保7年(1219年)正月22日:左近衛少将に任ず。
  • 承久3年(1221年)正月13日:正五位下に叙す(臨時)。11月29日(1222年1月12日):従四位下に叙す。少将如元。
  • 貞応元年(1222年)11月15日:左近衛中将に転ず。
  • 貞応2年(1223年)正月27日:近江権守を兼ぬ。3月15日:従四位上に叙す(中宮入内。父讓)。
  • 嘉禄元年(1225年)7月24日:復任す(父)。
  • 嘉禄2年(1226年)8月14日:皇太后権亮を兼ぬ。
  • 嘉禄3年(1227年)正月5日:正四位下に叙す(臨時)。4月7日:蔵人頭に補す。
  • 寛喜2年(1230年)正月4日:参議に任ず。左中将如元。
  • 寛喜3年(1231年)正月29日:阿波権守を兼ぬ。
  • 寛喜4年(1232年)正月5日:従三位に叙す(臨時)。
  • 文暦2年(1235年)正月30日:正三位に叙す。8月30日:権中納言に任ず。
  • 嘉禎3年(1237年)正月30日:勅授。9月15日:従二位に叙す。
  • 暦仁2年(1239年)正月5日:正二位に叙す。
  • 仁治元年(1240年)9月26日:停任。
  • 正嘉元年(1257年)8月:出家。
  • 文永元年(1264年)11月1日:薨去。享年61。または60。

系譜

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脚注

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  1. ^ 公卿補任』の出家時の年齢に従うと元久2年(1205年)生まれとなる。
  2. ^ 明月記寛喜元年10月30日条