姉小路実文
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時代 | 鎌倉時代初期 - 中期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
官位 | 従三位・非参議 |
主君 | 土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇→後嵯峨天皇→後深草天皇→亀山天皇 |
氏族 | 姉小路家(閑院流) |
父母 | 父:姉小路公宣、母:藤原兼光娘 |
兄弟 | 実世、実文、実尚 |
子 | 公朝 |
姉小路 実文(あねがこうじ さねふみ、旧字体:姉小路 實文󠄁)は、鎌倉時代初期から中期にかけての公卿。権大納言・姉小路公宣の次男。官位は従三位・非参議。
経歴
[編集]承元5年(1211年)従五位下に叙爵。承久4年(1222年)侍従に任ぜられ、貞応2年(1223年)従五位上に叙される。
嘉禄2年(1226年)出雲介、嘉禄3年(1227年)備中介を兼任した後、寛喜2年(1230年)正五位下に進む。嘉禎3年(1237年)従四位下・侍従に叙任され、仁治元年(1240年)に正四位下に陞叙。右近衛少将・中將を歴任し、宝治元年(1247年)美作介を兼ねる。建長2年(1250年)従三位に叙され公卿に列すが、文永4年(1267年)出家。その後の消息は不明。
従三位に叙された後、官職を一切務めることなく出家に至る。文永元年(1264年)兄・実世が嫡子を残すことなく薨去し、姉小路家(閑院流)は弟の実文・実尚の系統に移るが非参議に終わった実文ではなく、権中納言に到った実尚が嫡流とされ、姉小路家を継いでいる[1]。
官歴
[編集]※以下、『公卿補任』の記載に従う。
- 承元5年(1211年)正月5日:従五位下に叙爵(氏)。
- 承久4年(1222年)正月24日:侍従に任ず。
- 貞応2年(1223年)正月27日:従五位上に叙す(實季卿寛治二春日行幸賞)。
- 嘉禄元年(1225年)7月4日:復任(父)。
- 嘉禄2年(1226年)正月23日:出雲介を兼ぬ。
- 嘉禄3年(1227年)3月26日:備中介を兼ぬ(出雲介依無闕也)。
- 寛喜2年(1230年)正月4日:正五位下に叙す。
- 嘉禎2年12月19日(1237年1月17日):従四位下に叙す。
- 嘉禎3年(1237年)正月29日:侍従に任ず。
- 嘉禎4年(1238年)正月5日:従四位上に叙す(宣陽門院当年御給)。
- 仁治元年(1240年)11月3日:正四位下に叙す。
- 仁治4年(1243年)2月2日:右近衛少将に任ず。
- 寛元2年12月17日(1245年1月16日):右近衛中将に転ず。
- 宝治元年(1247年)3月6日:美作介を兼ぬ。
- 建長2年(1250年)正月13日:従三位に叙す。
- 文永4年(1267年)6月:出家。