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安藤昌益

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安藤 昌益(あんどう しょうえき、元禄16年〈1703年〉- 宝暦12年10月14日1762年11月29日〉)は、江戸時代中期の日本医師思想家哲学者・アナーキスト・無神論者・革命論者。秋田藩出身。堂号は確龍堂良中[1][2]、号は柳枝軒、通称は孫左衛門。思想的には無神論やアナキズムの要素を持ち、農業を中心とした無階級社会を理想とした。

死後、近代の日本において、社会主義共産主義にも通じる思想を持った人物として評価を受けた。

生涯

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出羽国秋田郡二井田村下村(現在の秋田県大館市二井田)の豪農の家に生まれ、同地で没した。

長男ではなく利発であったことから元服前後に京都に上り、仏門に入り禅を学んだ(寺は妙心寺)。北野天満宮でも修行した。しかし仏教の教えと現状に疑問を持ち、(伝手は不明ながら)医師である味岡三伯の門を叩いた。味岡三伯は後世方別派に属する医師であった。ここで医師としての修行をし、八戸で開業する以前に結婚して子ももうけている。

「昌益思想発祥の地」記念碑(青森県八戸市天聖寺

陸奥国八戸の櫓(やぐら)横丁に居住し開業医となった。延享元年(1744年)8月の八戸藩の日記[3]には、櫛引八幡宮流鏑馬の射手を治療したことが記録に残されている。延享2年(1745年)領主層を対象とした政治の書『暦大意』を執筆した。しかし、昌益は一介の町医者であり町人身分に過ぎないが。その中で「民苦しみ穀種絶つときは、則ち国亡ぶ。国亡ぶる則は、国主自ら減却ぞ。罰恥百世に殆す者也」(『暦大意』<歳変>)と不仁の領主を厳しく非難している[4]

同年に八戸の天聖寺にて講演を行う。宝暦8年(1757年)にも同寺で討論会を開いている。その後、出羽国大館に帰郷。弟子の神山仙庵は八戸藩主の側医。

昌益の大著『自然真営道』は宝暦3年(1753年)に刊行された。門人仙庵の序から昌益の学派は、社会的反響について細心の警戒を持っていたことが知られる[5]

宝暦6年(1756年)9月、郷里の本家を継いでいた兄が亡くなり、家督を継ぐものがいなくなった。このため、宝暦8年ごろに二井田に1人で戻った。結局、家督は親戚筋から養子を迎え入れて継がせたが、昌益自身も村に残り村人の治療にあたった(八戸では既に息子が周伯を名乗って医師として独り立ちしていたため)。なお、宝暦10年前後には、八戸の弟子たち(真栄道の弟子)が一門の全国集会を開催し、昌益も参加した。参加者は松前から京都、大阪まで総勢14名。その後再び郷里へ戻って60歳で病死した。墓所は大館市温泉寺(秋田県指定史跡)。

思想

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昌益は、彼の生きた社会を「法世」[6]とみなし、法世以前に「自然の世」[7]があったと考え、法世を自然の世に高める具体的方策[8]を提唱した[9]

身分・階級差別を否定して、全ての者が労働(鍬で直に地面を耕し、築いた田畑で額に汗して働くという「直耕」)に携わるべきであるという、徹底した平等思想を唱えており、著書『自然真営道』(第25巻中「自然ノ世論」)にその考え(理想社会)が書かれている。彼の思想体系は、封建社会の混乱と矛盾を目撃し、深い時代的関心に裏付けられている。為政者を不耕貪食の輩と断罪もしている。

その当時の奥羽地方では、寛延2年(1749年)[10]、宝暦5年(1755年)[11]、同7年(1757年)と飢饉が頻発した。また、関東より一帯にかけて間引き[12]が広く行われるようになったのもこの頃である[13]。昌益は、このような現実を凝視し、考えた。

「…中平土の人倫は十穀盛りに耕し出し、山里の人倫は薪材を取りて之を平土に出し、海浜の人倫は諸魚を取りて之を平土に出し、薪材十穀諸魚之を易へて山里にも薪材十穀諸魚之を食し之を家作し、海浜の人倫も家作り穀食し魚菜し、平土の人も相同うして平土に過余も無く、海浜に過不足無く、彼(かしこ)に富も無く此に貧も無く、此に上も無く彼に下も無く…上無ければ下を攻め取る奢欲も無く、下無ければ上に諂ひ巧むことも無し、故に恨み争ふこと無し、故に乱軍の出ることも無き也。上無ければ法を立て下を刑罰することも無く、下無ければ上の法を犯して上の刑を受くるといふ患いも無く、…五常五倫四民等の利己の教無ければ、聖賢愚不肖の隔も無く、下民の慮外を刑(とが)めて其の頭を叩く士(さむらい)無く、考不孝の教無ければ父母に諂ひ親を悪み親を殺す者も無し、。慈不慈の法教(こしらえおしえ)無ければ、子の慈愛に溺るる父も無くまた子を悪む父母も無し。…是れ乃ち自然五行の自為にして天下一にして全く仁別無く、各々耕して子を育て壮んに能く耕して親を養ひ子を育て一人之を為れば万万人之を為して、貪り取る者無ければ貪り取らるる者も無く、天地も人倫も別つこと無く、天地生ずれば人倫耕し、此外一天の私事為し。是れ自然の世の有様なり」

— 「自然真営道」第25巻中「自然の世論」の要所を抜き出したもの、(丸山眞男日本政治思想史研究』東京大学出版会、1952年、261-262ページ)

『自然真営道』の内容は、共産主義や農本主義エコロジーに通じる考えとされているが、アナキズム(無政府主義)の思想にも関連性があり、間口の広さが見受けられる。またこの書の中で昌益は江戸幕府封建体制を維持し民衆を搾取するために儒教を利用してきたと主張して、孔子と儒教、特に朱子学を徹底的に批判した。

林基は、「イデオロギーの上でも、宝暦年間は重大な画期をなす。最大の指標は安藤昌益の『自然真営道』の成立である」「その基礎である幕藩封建制的大土地所有を根本から否定し、現存の一切の支配的イデオロギーを徹底的に批判した『自然真営道』の成立こそは、まったく画期的な変化の指標としなければならない。それは享保ー宝暦年間における階級闘争の質的転化の過程が生み出したものとみることができる」と論じている[14]

後に駐日カナダ大使であるH(ハーバート)・ノーマンの手により、『忘れられた思想家―安藤昌益のこと』原書名:Ando Shoeki and the Anatomy of Japanese Feudalism(大窪愿二訳、上下、岩波新書、1950年)が記されることで周知の人物となった。

奈良本辰也は1935年頃に『統道真伝』写本五冊を、京都大学国史研究室の書庫の片隅で、埃をかぶって放置されているのを発見している。奈良本は、これが写され始めたときには、世にも貴重な史料として迎えられたのであろうが、どうしたわけか、あまりひと目につかなかったのであると記している[15]

1976年、三宅正彦は、昌益の社会変革論は尊王論の系譜に入れるべきという考えを提示した[16]。それを受けて早川雅子は、「私法神書巻」(稿本『自然真営道』巻九)の分析によって昌益の尊王攘夷論を立証したと主張している[17][9]

著書

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  • 稿本『自然真営道』(全101巻。1899年、狩野亨吉が再発見、92冊)- 弟子の神山仙確が昌益の死後に遺稿をまとめたもの(序文が仙確による追悼文)
  • 『統道真伝』(1752年頃著す。全5巻、現存)
  • 刊本『自然真営道』(1753年、刊行。3巻3冊、現存、日本哲学全書第9巻に収められている。)

主著といえる稿本『自然真営道』(自筆本)は発見者である狩野亨吉によって東京帝国大学図書館に所蔵されたが、その大半が関東大震災で焼失した。現存するのは15冊のみで、そのうち12冊が東京大学総合図書館の蔵書である。その後、『統道真伝』や刊本『自然真営道』などが発見され、それらの文献をもとに、1983年 - 1987年に『安藤昌益全集』(安藤昌益研究会編、農山漁村文化協会、全21巻別巻1)が刊行された。

全集の刊行後、1969年に京都大学医学部図書館で発見されていた『真斎謾筆』という古医書が、その内容から稿本『自然真営道』の後半部分を写したものであると判明した。また、2001年には内藤記念くすり博物館の大同薬室文庫から『良中子神医天真』と『良中子先生自然真営道方』という昌益の医学書を要約した文献が発見され、これらは2005年に『安藤昌益全集』の増補篇(全3巻)に収録された。

笹原宏之は安藤の著書に「講義」と書くべき箇所に「講議」という誤記があること、これは部首につられたものであろうこと、現代の学生にもよく見られる誤記であることを自著で紹介している[18]

脚注

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  1. ^ 『江戸時代人物控1000』山本博文監修、小学館、2007年、20-21頁。ISBN 978-4-09-626607-6 
  2. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 70頁。
  3. ^ 藩の公用日記『八戸藩日記』
  4. ^ 若尾政希、2004年、247ページ
  5. ^ 丸山眞男「付章2 安藤昌益」(1945年度講義・第12章)『丸山真男講義録 第1冊 日本政治思想史 1948』東京大学出版会、1998年、252ページ
  6. ^ 戦乱・災害・飢饉が絶えず、支配者が民衆の労働生産物を搾取する世
  7. ^ 戦乱や身分差別のない世
  8. ^ 失りの上下仁別を以て、上下に別に非らざる法(稿本『自然真営道』巻25)
  9. ^ a b 若尾政希、2004年、1ページ
  10. ^ 11月佐渡の農民、増米免除などを江戸に越訴する。12月陸奥信夫・伊達両郡幕領の農民、減租・延納を要求して強訴する。会津藩全領の農民、年貢半免などを訴えて蜂起する。二本松藩・三春藩などでも一揆相次ぐ。陸奥塙代官所支配の農民、減免を要求して蜂起する。会津藩、貧民へ半免を決定し、定率の定免制を施行する。
  11. ^ この年奥羽を中心に大飢饉。また、米沢・山形・天童などで打ち壊し起こる。
  12. ^ 仙台藩蘆東山の上書に「五六十年以前マデ、御百姓子供生育仕ルニハ、一夫一婦ニテ男女五六人モ七八人モ生育仕ル処、近年相続仕ル故カ、又世上奢リ候故ニヤ、一両人ノ外ハ多クハ生育仕ラズ、モドス返ス坏ト申候テ、出生イナヤ其父母直ニ残害仕候」とあるのは、宝暦4年のことである(日本経済大典、第11巻、477ページ。丸山眞男 『日本政治思想史研究』東京大学出版会、1952年 265ページ)
  13. ^ 9代家重(1745-1760)の頃になっても事態は少しも改善されなかった。近世初期より徐々に上昇を続けてきた全国人口数は、増加が止まっただけでなく減少し始めた。享保11年(1726年)を人口指数100とすると延享元年(1744年)98.51、宝暦6年(1756年)98.18、同12年(1762年)97.25である。全人口の8割を占めたであろう農民の生活状況に実態である(丸山眞男『日本政治思想史研究』東京大学出版会、1952年、253-254ページ)。
  14. ^ 若尾政希、2004年、285ページ
  15. ^ 奈良本辰也 『日本の歴史17 町人の実力』 中公文庫新版 [S-2-17] ISBN 978-4122046283、376p
  16. ^ 三宅正彦「江戸時代の思想」『体系日本叢書・思想史Ⅱ』山川出版社、1976年 [要ページ番号]
  17. ^ 早川雅子「安藤昌益の社会改良論の一考察」(愛知教育大学哲学教室内日本思想史研究会編『日本思想史への私論』みしま書房、1981年)
  18. ^ 笹原宏之 『日本の漢字』 岩波新書 新赤版991 ISBN 4004309913、74p

参考文献

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  • 石渡博明『安藤昌益の世界―独創的思想はいかに生れたか 』草思社、2007年
  • 稲葉克夫『八戸の安藤昌益』八戸市・八戸史編纂室、2002年
  • 稲葉守『今にして安藤昌益』風濤社、2004年
  • 狩野亨吉遺文集』安倍能成編、岩波書店、1958年。復刊1986年ほか
  • 桜田常久『安藤昌益』東邦出版社、1969年。小説
  • ラードゥーリ・ザトゥロフスキー著、村上恭一訳『18世紀日本の唯物論者 安藤昌益の世界』雄山閣出版、1982年
  • 寺尾五郎『安藤昌益の闘い』農山漁村文化協会、1978年
  • 寺尾五郎『論考安藤昌益』農山漁村文化協会、1992年
  • 寺尾五郎『安藤昌益の自然哲学と医学 続・論考安藤昌益(上)』農山漁村文化協会、1996年
  • 寺尾五郎『安藤昌益の社会思想 続・論考安藤昌益(下)』農山漁村文化協会、1996年
  • 東条栄喜『安藤昌益の「自然正世」論』農山漁村文化協会、1996年
  • 奈良本辰也校訂『統道真伝』岩波文庫(上・下)、1970年。のち復刊
  • E・ハーバート・ノーマン、大窪愿二訳『忘れられた思想家~安藤昌益のこと~』岩波新書(上・下)、1950年、のち復刊、「全集3」岩波書店、1978年
  • 野口武彦日本の名著〈19〉 安藤昌益』中央公論社、1971年、のち中公バックス
  • 八戸市市立図書館編『安藤昌益』伊吉書院、1974年
  • 尾藤正英校訂『日本思想大系〈45〉 安藤昌益・佐藤信淵』岩波書店、1977年
  • 尾藤正英、石渡博明、松本健一『安藤昌益(日本アンソロジー)』光芒社、2002年
  • 三宅正彦『安藤昌益の思想的風土 大館二井田民俗誌』そしえて出版、1983年
  • 安永寿延『安藤昌益』平凡社、1976年
  • 渡辺大濤『安藤昌益と自然真営道(渡辺大濤 昌益論集)』勁草書房、1970年
  • 若尾政希『安藤昌益からみえる日本近世』 東京大学出版会 2004年 ISBN 4-13-026206-8

関連項目

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外部リンク

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