安藤貫一
人物情報 | |
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生誕 |
1878年(明治11年)9月4日 日本東京府深川西大工町(現:東京都江東区清澄二丁目) |
死没 |
1924年(大正13年)12月27日 イギリスイングランドワイト島シャンクリン 急性結核 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 欧文正鵠学館、国民英学会英文科 |
学問 | |
研究分野 | 英文学 |
研究機関 | 三重県立四日市商業学校、茨城県師範学校、青森県師範学校、岩手県立一関中学校、長野県立上田中学校、鹿児島県立第一中学校、朝鮮総督府京城中学校、大阪貿易語学校、大阪高等商業学校 |
主要な作品 | I AM A CAT(『吾輩は猫である』英訳) |
影響を受けた人物 | コナン・ドイル |
安藤 貫一(あんどう かんいち、1878年〈明治11年〉9月4日 - 1924年〈大正13年〉12月27日)は日本の英文学者。鹿児島県立第一中学校教諭、大阪高等商業学校教授。夏目漱石の小説『吾輩は猫である』の英訳で知られる。
生涯
[編集]1878年(明治11年)9月4日、東京府深川西大工町(現:東京都江東区清澄二丁目[1])に生まれた[2]。
1894年(明治27年)6月、ジェームス・サマーズの欧文正鵠学館を卒業した後[3]、国民英学会に入学して磯辺弥一郎・岡倉由三郎等に学び[4]、1895年(明治28年)11月正科、1896年(明治29年)11月英文科を共に首席で卒業した[5]。同期には勝俣銓吉郎・菅野徳助・南日恒太郎・鷲見亀五郎・米田実・河上清・最上梅雄等がいた[6]。
1898年(明治31年)4月、三重県立四日市商業学校英語教師となり[2]、茨城県師範学校、青森県師範学校、岩手県立一関中学校を歴任した[7]。1904年(明治37年)4月11日[8]『万朝報』の英文を見た浜村善吉に後任を請われて長野県立上田中学校教諭となった[9]。
1907年(明治40年)8月31日[8]、学校改革を進める岡元輔校長の招きで鹿児島県立第一中学校教諭となった[7]。この頃には日本一高給の中学英語教師となったという[6]。
1909年(明治42年)7月3日に休職し[8]、岡校長の働きで県から留学費を提供され[10]、島津久賢に随いイギリスに渡った[2]。ブロンズベリークライストチャーチ通りに小松原隆二と同宿し[11]、ロンドン大学・オックスフォード大学で英文学・発音学を学び[7]、コナン・ドイル、ジェローム・K・ジェローム、H・G・ウェルズ、G・K・チェスタートン等と面会した[2]。1910年(明治43年)7月アメリカ合衆国に渡り、ボストンロチェスター大学で学んだ[7]。
1911年(明治44年)2月に帰国して[2]、3月8日鹿児島一中に復帰し[8]、造士会講習会にも出講した[12]。
1913年(大正2年)3月、朝鮮中等学校長となった岡元輔の招きで朝鮮総督府京城中学校に転じ[12]、台北中学校佐伯好郎、旅順工科学堂永野武一郎と共に植民地の三大英学者と称された[13]。
1915年(大正4年)冬大阪に移り、1916年(大正5年)大阪貿易語学校で教えた[13]。1917年(大正6年)4月四日市時代の同僚片野実之助校長に大阪高等商業学校に招かれ[10]、1918年(大正7年)6月29日教授となった[14]。1922年(大正11年)長岡拡が東京商科大学への引き抜きを試みるも、大阪高商に拒まれた[15]。
1924年(大正13年)7月に再び渡米し[2]、ボストンゲインズバラ通りに滞在中、湿潤な気候のため持病の喘息が悪化した[16]。12月イギリスワイト島シャンクリンで療養するも、急性結核末期と診断され、27日午前5時(日本時間午後2時)に死去し、30日ウォキングで荼毘に付された[17]。2月15日大阪成正寺で追悼会、9月19日校葬が行われ、東京小石川区本伝寺に葬られた[18]。戒名は慈明院貫一日精居士[18]。
著作
[編集]- The Psychological Method of Teaching English
- Résumé of Lectures Given at the Summer School of English (1904)
- 1904年(明治37年)第四高等学校でエドワード・ガントレット、D・R・マッケンジー、ウィリアム・エリオットが行った夏期講習会の記録[20]。三省堂刊[21]。
- I AM A CAT(夏目漱石『吾輩は猫である』)
- ウィリアム・クラーク[要曖昧さ回避]校閲[22]。1906年(明治39年)第1-2章、1908年(明治41年)第3-4章刊[23]。1989年(平成元年)ロンドン漱石記念館再刊[24]。
- The Serene Realm Beyond the Passion(菊池寛『恩讐の彼方に』)
- SHUNKAN(倉田百三『俊寛』)
- 谷崎精二『盗み』英訳
- 1924年(大正13年)『英語青年』連載[2]。
- 菊池寛『身投げ救助業』英訳
- 1925年(大正14年)『英語青年』連載[2]。
- SAKURA SOGORO, MARTYR.(『佐倉宗吾郎伝』)
脚注
[編集]- ^ 和田 2004, p. 55.
- ^ a b c d e f g h i j k 新井 1992.
- ^ 出来 1977, p. 101.
- ^ 出来 1977, p. 102.
- ^ a b 磯辺 1925.
- ^ a b 勝俣 1925.
- ^ a b c d 和田 2004, p. 56.
- ^ a b c d 叙位裁可書 1911.
- ^ 出来 1977, p. 103.
- ^ a b 片野 1925.
- ^ 小松原 1925.
- ^ a b 和田 2004, p. 57.
- ^ a b 出来 1977, p. 104.
- ^ 『官報』1918年07月03日NDLJP:2953888/6
- ^ 長岡 1925.
- ^ 神保 1925.
- ^ 細江 1925.
- ^ a b 和田 2004, p. 58.
- ^ 後藤田 1998, p. 213.
- ^ 後藤田 1998, p. 210.
- ^ 松村 1977, p. 53.
- ^ 笹岡 1925.
- ^ 和田 2004, pp. 52–54.
- ^ 和田 2004, p. 60.
参考文献
[編集]- 磯辺弥一郎「安藤貫一氏を憶ふ」『英語青年』第53巻第1号、研究社、1925年4月。
- 勝俣銓吉郎「安藤君と僕」『英語青年』第53巻第1号、研究社、1925年4月。
- 片野実之助「安藤君を憶ふ」『英語青年』第53巻第1号、研究社、1925年4月。
- 小松原隆二「安藤貫一君を憶ふ」『英語青年』第53巻第2号、研究社、1925年4月。
- 神保格「Bostonで会つた安藤先生」『英語青年』第53巻第2号、研究社、1925年4月。
- 長岡拡「三年前」『英語青年』第53巻第2号、研究社、1925年4月。
- 細江逸記「安藤教授を悼む」『英語青年』第53巻第4号、研究社、1925年5月。
- 音代節雄 「安藤先生を憶う」『英語青年』第53巻第4号、研究社、1925年5月。
- 笹岡民次郎「安藤君とクラーク教授」『英語青年』第53巻第5号、研究社、1925年6月。
- 出来成訓「英文家 安藤貫一」『英学史研究』第1978巻第10号、日本英学史学会、1977年、101-108頁、doi:10.5024/jeigakushi.1978.101、ISSN 0386-9490、NAID 130003624708。
- 新井清司「コナン・ドイルに会った安藤貫一」『書誌調査 1992』、私立大学図書館協会東地区研究部書誌調査研究分科会、1992年。
- 和田長丈「『吾輩ハ猫デアル』を最初に英語訳した安藤貫一」『大学図書館問題研究会誌』第26号、大学図書館問題研究会、2004年6月。
- 松村幹男「広島高師の外国人教師 : ElliottSmithおよびPringle」『英学史研究』第1978巻第10号、日本英学史学会、1977年、51-59頁、doi:10.5024/jeigakushi.1978.51、ISSN 0386-9490、NAID 130003624718。
- 後藤田遊子「D.R.マッケンジーと金沢英学院」『北陸学院短期大学紀要』第30号、北陸学院短期大学、1998年12月、203-219頁、ISSN 0288-2795、NAID 110000990184。
- 「福岡県立豊津中学校長大森藤蔵外三十八名叙位ノ件」『叙位裁可書』 叙位巻11、1911年 。