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実録飛車角 狼どもの仁義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
実録飛車角 狼どもの仁義
監督 村山新治
脚本 佐治乾
原案 飯干晃一
製作 橋本慶一(企画)
出演者 菅原文太
音楽 小杉太一郎
撮影 赤塚滋
編集 神田忠男
製作会社 東映京都撮影所
配給 東映
公開 日本の旗1974年10月5日
上映時間 93分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
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実録飛車角 狼どもの仁義』(じつろくひしゃかく おおかみどものじんぎ)は、1974年10月5日東映で公開された日本映画。カラー、シネマスコープ、93分。

概要

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尾崎士郎の自伝的大河小説『人生劇場』「残侠篇」[1]の登場人物である侠客・飛車角こと、小山角太郎のモデルとされる石黒彦市の生涯を描く[2][3]関東大震災から一年後の横浜を舞台に『人生劇場』を実録風アレンジした奇妙な作品[4]

石黒ら暴漢や無頼の徒が育った温床、大正末期から昭和にかけての不況と関東大震災による社会不安、左翼思想の台頭とヤクザの右翼化などの動乱世相を背景に、己の力と暴力のみを信じた男の強烈な生き様と屈折を実録として描く[3][5]

あらすじ

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関東大震災で96%の家屋が焼失し、2万4千人が死者行方不明となった横浜新潟からやって来た石黒彦市はやくざの村山組の仕切るゴンゾウ部屋(荷揚げ労働者の寄場)に転がり込み、沖仲士として働きながら賭場に出入りするようになっていた。震災で港は壊滅状態になり沖仲士は皆失職した。彦市は決め事の多いやくざのしきたりを嫌がってを受けようとせず、己の力と暴力のみを信じて生きる決意をする。震災後の青空で開催される賭場を風のように現れて掛け金を全てぶんどり、そんな賭場荒らしの手口から"ぶったぐりの彦"と恐れられ、ハマの一匹狼として有名になっていく。

キャスト

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スタッフ

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製作

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将棋を愛好した尾崎士郎が留置場で石黒彦市を知ったのは昭和9年(1934年)頃で[3]、石黒の反骨精神を買い、その後も石黒の面倒もみた[3]盤上で縦横無尽の活躍をする飛車通り名とした、と尾崎自身も書いている[3]。また石黒自身も自分が飛車角であると認めている[3]

飯干晃一が、国がヤクザを利用しようとしていた昭和初めに、一人だけそっぽを向いたといわれる石黒に興味を持ち、時代背景、及び横浜を中心に刻明に取材し[3]、『週刊現代』に『昭和残侠伝 狼どもの仁義』というタイトルの小説を連載した[2][6]。連載の初回に誌上で「『人生劇場』に飛車角こと小山角太郎として出てくる男のモデル・石黒彦市を描いたものだが、石黒は"ぶったぎりの彦"ではあっても、飛車角のイメージを壊すことを恐れるので、石黒彦市の名で通す」と断りを掲載した[2]。本作は連載中のこれを原作とする映画であったが[3]、映画化に際し、岡田茂東映社長がタイトルを『実録飛車角 狼どもの仁義』に改題し[2]、「飛車角のモデル・石黒彦市の素顔を実録路線で暴く。彦市が義理と人情の侠客どころか、賭場荒らしの無法者として描く」などと発表したため[2]、尾崎士郎の未亡人・尾崎清子がビックリして新聞紙上で「小説に出てくる人物はすべて尾崎が創作したもの。飛車角は、石黒彦市の一部は取り入れているかもしれないが、実際は何人ものモデルを使い、侠客の理想像として描いたものです。今回は原作が別にせよ、その飛車角の名前を使われたら大変迷惑。飯干さんには直接、東映には人を立てて、飛車角の名前だけはお使いにならぬよう申し入れました」と抗議した[2][7]。これを受け、飯干は「先月シノプシスが出来た際、"飛車角"のタイトルがついていたので、あれは尾崎さんの作った人物だからタイトルに使わないようにと東映に言ってある」と話した[2]。ところが岡田社長が「興行はタイトルで決まる」と"飛車角"で押す方針を撤回せず[2]、「尾崎原作と飯干原作が重複しているところはあるが『人生劇場』をやるわけではない。石黒が飛車角と呼ばれた男の一人であることは確か」と話し[2]、その後の経過は不明だが結局、タイトルは『実録飛車角 狼どもの仁義』で公開された。ナレーションで「石黒を日本侠客の代表的人物」と謳い上げた[7]

石黒彦市

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石黒は大正11年(1922年)に横浜に住みつきゴンゾウからヤクザになった[3]。生まれながらに組織や権力支配に抵抗し、暴力こそが自己の意志の最後の拠り所という考えを持った荒っぽい男[3]。一匹狼のヤクザになってからは賭場を荒らして名を売り、ぶったぐりの彦という通り名で姿恰好など相当派手好きで女も好んだ[3]。『人生劇場』の小山角太郎とはイメージを異にしている[3]。石黒を暗殺する村岡健次(演:小林旭)も実在実名の人物で[3]、"火の玉小僧"と当時の不良少年から恐れられたという[3]。脚本の佐治乾は、村岡に直接取材ができ、村岡は石黒の印象を「飛車角という男は、奇妙に魅力のある男だった。1日1回は電話で話し合わないと淋しいくらいに仲がよかった」と話したという[3]

脚本

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脚本は1970年日活反逆のメロディー』で、東映『人生劇場 飛車角』以来のヤクザ映画に対する型の神話を崩したとも評された佐治乾[7]。その佐治が自らの手で、ヤクザ映画の原型になった飛車角そのものを崩壊させ、佐治に於けるヤクザ映画を検証しようという試み[7]。佐治は「飯干さんは石黒を侠客と捉えられているようだが、私はアナーキストに近いと思う」と話した[3]

キャスティング

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中川梨絵のヒロイン抜擢は、菅原文太と脚本の佐治からの推薦[8]。『竜馬暗殺』の撮影終了後にオファーがあり、快諾した[8]。中川は佐治と以前酒を飲んだことがあり、酔っぱらうとあたり構わず酒をひっかける酒癖の悪い中川に佐治は酒をかけられたことがあり、強い印象があったという[8]。佐治は日活の河辺和夫監督と中川主演の映画を作ろうと中川の出演作を全部観ていた[8]。佐治も本作の監督・村山新治も、ポルノシーンがあまり好きでないことから、二人から「梨絵さんは哀れでいじらしい、すがりつくような女でいってくれ」と言われた[8]。 中川は田中登監督の『㊙色情めす市場』を映画館で観て「風景と人間が美しすぎて残酷に描き尽くされた映画を観たのは初めて」と感動して外へ出た途端気絶したと話した[8]。「映画はテレビよりやっぱり凄い、これからはただきれいな愛らしい女優というより汚辱にまみれた演技も出来る女優でありたい」と決意を述べ[8]、また「東宝時代は仕事がなくてやけになってお酒ばかり飲み、日活では仕事が殺到したけど、何ともいえない不安感が募ってやっぱり深酒。もう安息なんて縁のない悪循環を繰り返しているけど、今は猛烈に映画で何を表現できるか、考えられるようになった」等と話した[8]

撮影

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1974年9月12日クランクイン[8]

同時上映

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任侠花一輪

興行

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1960年代後半から燻り続けていた東映の岡田茂社長と俊藤浩滋プロデューサーの製作方針を巡る対立が1973年初頭に表面化[9][10][11][12]。1973年東映ラインアップに岡田がギャラの高い割にお客の入らない鶴田浩二高倉健を外して[10][11][13]、菅原文太や梅宮辰夫千葉真一松方弘樹渡瀬恒彦安藤昇梶芽衣子池玲子杉本美樹谷隼人中村英子ら、次世代スターをフル回転させ、新路線開拓を狙うラインアップを組むと発表したことで[13]、鶴田と高倉をかこっていた俊藤の怒りが爆発した[9][10][11]。同年3月、関東東映会の佐々木進会長を立て表面上の和解がなされたが[10][11][14][15]、実際は和解しておらず[16]、新聞誌上で岡田を誹謗した鶴田は[17]、一年半、映画を干された[18][19]。高倉も岡田から高倉プロの撤回を要求されて確執があり[20][21]、東映作品の出演を拒むようになっており[9][20]、この騒動の時にトップスターたちのテレビや他社出演も従来より柔軟な姿勢で対処していくという申し合わせがなされたが[9]、俊藤派の高倉が東宝に貸し出しされて製作された『無宿』に、岡田派が同時期、本作『実録飛車角 狼どもの仁義』をぶつけた[22]。菅原文太も俊藤派と見なされていたが、先のお家騒動で、岡田と俊藤の板挟みに苦しんだ菅原は、沈黙を貫き、お咎めなしになっていた[22]

映像ソフト

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脚注

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  1. ^ 尾崎士郎記念館 - 西尾市役所 第10回「人生劇場 -義理と人情- 」(Internet Archive)
  2. ^ a b c d e f g h i “東映『実録飛車角 狼どもの仁義』に待った 夫が創作した人物像こわす 尾崎士郎未亡人が抗議”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 7. (1974年2月2日) 
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 「『実録・飛車角』のプロローグ/暗殺まで 文・佐治乾」『シナリオ』1974年11月号、日本シナリオ作家協会、100–101、109頁。 
  4. ^ 実録やくざ映画大全 2013, pp. 141–143.
  5. ^ 実録飛車角 狼どもの仁義”. 日本映画製作者連盟. 2022年11月25日閲覧。実録・飛車角 狼どもの仁義 – 東映ビデオオフィシャルサイト
  6. ^ 東映実録バイオレンス 2018, pp. 122–125.
  7. ^ a b c d 斎藤正治「シナリオ作家 佐治乾の方法と思想」『シナリオ』1974年11月号、日本シナリオ作家協会、104–108頁。 
  8. ^ a b c d e f g h i 「『実録・飛車角』でおきみを演じる 日本のエロチシズムを求めて 中川梨絵(女優)」『シナリオ』1974年11月号、日本シナリオ作家協会、102–103頁。 
  9. ^ a b c d “東映、お家騒動のてんまつ記 社長と俊藤プロデューサー対立 "路線"で波紋、両者話し合いで一件落着”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 9. (1973年3月6日) 
  10. ^ a b c d 井沢淳・高橋英一・鳥畑圭作・土橋寿男・嶋地孝麿「映画・トピック・ジャーナル 和解へ向かう"鶴田・高倉"問題」『キネマ旬報』1973年4月上旬号、キネマ旬報社、174 - 175頁。 「映画界の動き 東映の製作方針対立和解す」『キネマ旬報』1973年4月上旬号、キネマ旬報社、150頁。 
  11. ^ a b c d 「《話題の裏窓》 "お家騒動"が一見落着した東映 岡田社長と俊藤氏の和解は果たして本物か」『実業界』1973年3月号、株式会社実業界、82 - 83頁。 
  12. ^ 映画界のドン 2012, pp. 81–82.
  13. ^ a b 「映画界の動き 東映の73年度経営方針」『キネマ旬報』1973年2月下旬号、キネマ旬報社、163頁。 
  14. ^ あかんやつら 2013, pp. 324–325.
  15. ^ 日下部五朗『シネマの極道 映画プロデューサー一代』新潮社、2012年、77-78頁。ISBN 978-4103332312 俊藤浩滋山根貞男『任侠映画伝』講談社、1999年、228-231、239-240頁頁。ISBN 4-06-209594-7 岡田茂『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』角川書店、2004年、220 - 221頁。ISBN 4-04-883871-7 
  16. ^ 「《ウの目タカの目》 むしろこれから東映のお家騒動」『週刊文春』1973年3月26日号、文藝春秋、27頁。 
  17. ^ 「古いやつ、鶴田浩二がヤクザ映画に帰ってきた」『週刊現代』、講談社、1976年12月16日号、36頁。 
  18. ^ 「苦節一年半"男の涙" 鶴田浩二スクリーン復帰の舞台裏」『週刊ポスト』、小学館、1974年7月19日号、52頁。 河原畑寧「洋画ファンのための邦画ジャーナル 藤純子も出演か?東映オールスター大作『あゝ決戦航空隊』」『ロードショー』1974年8月号、集英社、230頁。 
  19. ^ 映画界のドン 2012, pp. 51.
  20. ^ a b 「悪化する高倉健と東映のいがみ合い」『サンデー毎日』、毎日新聞社、1974年11月12日号、50頁。 
  21. ^ 脇田巧彦「映画・私生活・ファンのこと 『総長への道』撮影中の高倉健にきく」『キネマ旬報』、キネマ旬報社、1971年3月20日増刊号 任侠映画大全集、78 - 81頁。 
  22. ^ a b 「『今も乞食稼業』東映の切札・菅原文太」『週刊文春』1974年4月2日号、文藝春秋、170-171頁。 「実録・無宿の高倉健さん」『週刊文春』1974年10月14日、文藝春秋、18頁。 

参考文献

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  • 文化通信社編『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年。ISBN 978-4-636-88519-4 
  • 『実録やくざ映画大全』洋泉社、2013年。ISBN 978-4-86248-984-5 
  • 春日太一『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』文藝春秋、2013年。ISBN 4-1637-68-10-6 
  • 高田宏治『東映実録路線 最後の真実』メディアックス、2014年。ISBN 978-4-86201-487-0 
  • 杉作J太郎植地毅『東映実録バイオレンス 浪漫アルバム』徳間書店、2018年。ISBN 978-4-19-864588-5 

外部リンク

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