小林乾一郎
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小林 乾一郎(こばやし けんいちろう、弘化2年6月15日(1845年7月19日) - 昭和4年(1929年)1月2日[1])は、日本の教育家、政治家。後の延岡市長鈴木憲太郎の実父。
主な事績
[編集]明治時代の延岡を代表する教育者、政治家。衆議院議員として、明治期の宮崎県の発展に寄与した。また、延岡の女子教育に大きく貢献した「女児教舎」の提唱者であり、その総監督を務めた。民有林の国有化に反対し、「県北民有林と林業の父」とも称される[2]。
生涯
[編集]1845年(弘化2年)、日向国延岡(現・宮崎県延岡市)生まれ[2][1]。藩校廣業館で学んだ後長崎に遊学し、その後東京の大学南校に学ぶ[3]。横浜修文館の英語教師を勤めた後、1873年(明治6年)に帰郷、延岡社学(亮天社)の英語教師となる[2]。
1881年(明治14年)星亨の勧めで自由党に入り[2]、1886年(明治19年)宮崎県会議員[2]、1888年(明治21年)副議長、1890年(明治23年)議長、1892年(明治25年)衆議院議員となった[2]。1899年(明治32年)に議員を辞職後、旧藩主である内藤政挙の家令を長く務め、延岡の発展に寄与した[2]。1929年(昭和4年)1月、85歳没。
1887年(明治18年)の政府による民有林国有化政策に際して、先頭に立って反対運動を展開し、民有林の確保に奔走した[2]。天外と号し、漢詩や書画に親しみ、梅の絵を得意とした[2]。
1965年6月、功績をたたえ、愛宕山の中腹に胸像が建立された[2]。2014年、胸像が山頂駐車場へと移転された[2]。
脚注
[編集]関連項目
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