山崎尭治
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元禄元年4月26日(1688年5月25日) |
死没 | 延享2年12月18日(1746年1月9日) |
改名 | (初名)亀之助 |
別名 | 寛盛、(通称)兵庫 |
墓所 | 岡山県高梁市成羽町下原の桂巖寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 綱吉、家宣、家継、吉宗 |
氏族 | 近江山崎氏 |
父母 | 父:山崎義方、母:市橋政信の娘 |
兄弟 | 尭治、土倉一涂、女子(京極高通継室)、女子(一柳頼邦婚約者)、照方 |
妻 | 久留島通政の養女(実は久留島通迥の娘) |
子 | 紀盛、信盛、女子(山崎久治室)、女子(裏辻公風正室)、女子(柴田康平正室) |
山崎 尭治(やまざき たかはる)は、江戸時代中期の交代寄合表向御礼衆。備中国成羽領3代領主。
生涯
[編集]元禄元年(1688年)4月26日、備中国成羽領2代領主山崎義方の長男として江戸で生まれる。母は近江国仁正寺藩2代藩主市橋政信の娘。市橋家の血統を通じて、先祖に真田昌幸がいる[1]。正室は豊後国森藩4代藩主久留島通政の養女(実は通政の叔父で500石の旗本久留島通迥の娘で通政の従妹に当たる)。義兄には森藩5代藩主久留島光通がいる。尚、この久留島光通はやはり尭治の正室と従兄弟の関係であり、かつ備中国成羽領5代領主山崎義俊の実父にあたる人物でもある。尚、山崎義俊のページでも説明があるが、久留島家とは遠縁に当たる。具体的には、尭治の曾祖父に当たる山崎家治の義弟で旗本池田長頼の正室は、豊後国森藩2代藩主久留島通春の娘であり、尭治の正室は通春の孫娘に当たる。
元禄13年(1700年)11月15日、世継として徳川綱吉に拝謁した。宝永5年(1708年)8月23日、父義方の死去に伴い成羽領5,000石の家督を相続した。翌宝永6年(1709年)6月7日、幕府の許可を得て初めて成羽へのお国入りを果たす。延享2年(1745年)12月18日、江戸にて死去。享年58歳。家督は嫡男の紀盛が病身のため相続出来ず、次男の山崎信盛が相続した。
系譜
[編集]- 父:山崎義方
- 母:近江国仁正寺藩2代藩主市橋政信の娘
- 正室:豊後国森藩4代藩主久留島通政の養女(実は通政の叔父で500石の旗本久留島通迥の娘)
- 長男:山崎紀盛(1719-1752)※正室出生の嫡男であったが、病身のため家督を相続することが出来なかった。
- 生母不明の子女
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『山崎家譜』東京大学史料編纂所
- 『寛政重脩諸家譜. 第3輯』 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
- 『成羽町史』成羽町史編集委員会編、成羽町、1991-1996