山崎義徳
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 明和6年6月23日(1769年7月26日) |
死没 | 文化10年12月20日(1814年2月9日) |
改名 | (初名)歌之丞、義質 |
別名 | (通称)主税助 |
戒名 | 正覚院成山本瑞 |
墓所 | 岡山県高梁市成羽町下原の桂巖寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治、徳川家斉 |
氏族 | 近江山崎氏 |
父母 | 父:山崎義俊、母:側室 |
兄弟 | 義孝、黒田長堅、義苗、義徳、女子(早世)、義進、女子(松平康盛正室)、女子(戸川達邦正室、死別後久留島通正正室)、女子(松平正直正室、のち離縁) |
妻 | 木下俊胤の娘 |
子 | 女子(平野長興正室)、植松(早世)、義尊(早世)、女子(江川英虎正室、離縁後横瀬貞征正室)、女子(中根敬一郎正室、離縁後岡野知英正室)、義高、義柄、女子(早世)、近富(田中近昌養子) |
山崎 義徳(やまざき よしのり)は、江戸時代中期の交代寄合表向御礼衆。備中国成羽領8代領主。[1]
生涯
[編集]明和6年(1769年)6月23日 、備中国成羽領5代領主山崎義俊の四男として成羽で生まれる。母は義俊の側室。正室は豊後国日出藩10代藩主木下俊胤の娘。この婚姻関係により日出藩11代藩主木下俊懋、越後村松藩7代藩主堀直方らと義兄弟の関係となった。また、父方の従弟に豊後国森藩8代藩主久留島通嘉がいる。なお、木下家と山崎家は遠縁に当たる。木下俊胤の岳父木下俊泰の妹が、義徳の祖父に当たる森藩5代藩主久留島光通の正室であり、祖母に当たる。木下家とは縁が深く、木下勝俊の娘智光院が山崎家の祖山崎家治の継室として嫁ぎ、成羽領初代領主山崎豊治が出生している。
天明元年(1781年)7月26日、次兄義苗が急逝したことに伴い、同年9月11日に成羽領5,000石の家督を相続した。天明8年(1788年)9月1日、徳川家斉に拝謁。続けて寛政元年(1789年)6月21日、幕府の許可を得て成羽へのお国入りを果たす。領主在任中は輪王寺日光門主の上京の付添を命じられるなど、幕府御用を勤めている。文化10年(1813年)12月20日、江戸にて死去した。享年は45歳。長男義尊は早世していたため、次男義高が家督である成羽領5,000石を相続した[2]。
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ “寛政重脩諸家譜. 第3輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2021年3月26日閲覧。
- ^ “画像表示 - SHIPS Image Viewer”. clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp. 2021年3月26日閲覧。
- ^ その後、平野長興との間に生まれた次男が四男義柄の養子として山崎家に養子として入り、成羽領11代領主(のち維新立藩し備中国成羽藩主)山崎治正となる。
- ^ 岡野知英の5男は豊後国臼杵藩15代藩主稲葉久通。稲葉家とは縁がある。成羽領の祖山崎豊治の兄俊家が正室として稲葉一通の娘を迎え、山崎義方の正室の実家仁正寺藩市橋家を通じても縁があった。