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山形政二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山形 政二
生誕 1893年2月6日
日本の旗 日本 鳥取県米子市道笑町
死没 (1944-02-06) 1944年2月6日(51歳没)
日本の旗 日本 クエゼリン島
所属組織 日本海軍
軍歴 1916年 - 1944年
最終階級 海軍少将
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山形 政二(やまがた せいじ / まさじ、1893年明治26年)2月6日 - 1944年昭和19年)2月6日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍少将

経歴

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鳥取県米子市道笑町出身。山形金太郎の息子として生まれる。山形家は今は米子駅前の「山形屋みやげ店」になっているが、元は道笑町一丁目で線香木蝋を製造販売した老舗で、屋号を山形屋といった。1906年(明治39年)駅前の現在地に移ってから、信州山十製糸の指導のもとに、座繰製糸を始めている。

米子中学(現在の米子東高校)では野球部。海軍兵学校および陸軍士官学校第27期)を受験し、双方に合格している。1912年(大正元年)[元号要検証]海軍兵学校に進んだ。海兵を志望したのは、兄貞一郎と同期の福留繁の感化によるものだったという。福留は政二と入れ替りにこの年海兵を卒業した。

1915年(大正4年)、海兵卒業(43期)、翌年の1916年(大正5年)12月、海軍少尉に任官。その後、海軍呉港務部などの勤務を経て海軍大佐に昇進。1941年(昭和16年)4月、測量艦「駒橋」の艦長に任命される。

やがて、クエゼリン島の第61警備隊司令に任命された。クェゼリンの戦いにより、1944年(昭和19年)2月6日、戦死。2月6日は彼の誕生日であった。戦死後海軍少将に昇進する。

人物像

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艦長時代の山形は、冷静そのもので、好んで若い士官に自分の経験した歴史を話したという。母校の米子中学(現在の米子東高校)が気骨のあるいい学校であったとか、シベリア出兵ロンドン軍縮会議、そして日独伊三国同盟に至っては、危険であることすら説いたという[1]

年譜

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  • 1915年(大正4年)12月 - 海軍兵学校(第43期)卒業
  • 1916年(大正5年)12月 - 海軍少尉
  • 1921年(大正10年)12月 - 海軍大尉
  • 1923年(大正12年)12月 - 「室戸分隊
  • 1924年(大正13年)12月 - 「青島」分隊長
  • 1925年(大正14年)7月8日 - 佐世保鎮守府
    • 7月15日 - 「駒橋」水雷長
  • 1926年(大正15年)12月 - 佐世保防備隊分隊長
  • 1929年(昭和4年)11月1日 - 「佐多」運用長
  • 1930年(昭和5年)8月 - 「鶴見」運用長
  • 1931年(昭和6年)9月 - 「那智」運用長
  • 1933年(昭和8年)11月 - 「伊勢」運用長
  • 1935年(昭和10年)10月 - 「隠戸」副長
    • 11月 - 海軍中佐
  • 1936年(昭和11年)6月 - 「鳴戸」副長
  • 1937年(昭和12年)12月 - 「千歳艤装
  • 1938年(昭和13年)3月 - 「千歳」副長
    • 12月 - 横須賀港務部部員兼副官
  • 1940年(昭和15年)6月 - 呉港務部部員
  • 1941年(昭和16年)4月 - 「駒橋」艦長
    • 10月 - 海軍大佐
  • 1942年(昭和17年)2月 - 「室戸」特務艦長
  • 1943年(昭和18年)8月 - 呉鎮守府
    • 9月 - 第61警備隊司令兼第6潜水艦基地隊司令
  • 1944年(昭和19年)2月 - 戦死・海軍少将

脚注

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  1. ^ 『勝田ヶ丘の人物誌』、200頁。

参考文献

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  • 『勝田ヶ丘の人物誌』(編集・勝田ヶ丘の人物誌編集委員会、発行・鳥取県立米子東高等学校創立百周年記念事業実行委員会 2000年、199-200頁)
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
  • 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第10巻、発売:第一法規出版、1995年。

関連項目

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外部リンク

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