山添三郎
山添 三郎(やまぞえ さぶろう、1908年〈明治41年〉10月20日 - 2007年〈平成19年〉1月15日)は、日本の医師、生化学者、エスペラント学者。医学博士。元日本エスペラント学会参与。世界エスペラント協会名誉会員、群馬大学名誉教授。
略歴
[編集]新潟県新潟市田中町(現 新潟市中央区田中町)出身。1925年(大正14年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1928年(昭和3年)3月に新潟高等学校を卒業、1932年(昭和7年)3月に新潟医科大学を卒業。
1932年(昭和7年)4月に新潟医科大学医化学教室[注 1]助手に就任、1937年(昭和12年)1月に日本労働科学研究所に入所、4月に新潟医科大学から医学博士号を取得、1939年(昭和14年)9月に満州の満鉄開拓科学研究所[注 2]に入所。
1942年(昭和17年)2月に北京大学衛生学教授に就任、1945年(昭和20年)に太平洋戦争に軍医として応召、青島で終戦、1947年(昭和22年)11月に北海道の三菱美唄労働科学研究所[注 3]に主任として入所。
1949年(昭和24年)8月に群馬大学医学部医化学講座[注 4]教授に就任、1974年(昭和49年)3月に群馬大学を定年退官、群馬大学名誉教授の称号を受称、共立女子大学栄養学教授に就任、1979年(昭和54年)に共立女子大学を定年退職。
脳における脂質の生化学的研究や筋疲労の生化学的研究で知られた。また、国際的なエスペラント学者としても知られた[6]。
満州の満鉄開拓科学研究所の所員だったときに撮影した、ソ連政府の迫害から満州に逃れたロシア正教会古儀式派のロシア人たちの写真が、『ロマノフカ村の日々』と題する写真集に掲載されて2012年(平成24年)に出版された[7][8][9][10]。
栄典・表彰
[編集]- 1980年(昭和55年)4月29日 - 勲三等旭日中綬章[11]
- 1996年(平成 8年)8月 - 第34回日本エスペラント学会小坂賞「医学用語集の執筆、医学分野におけるエスペラントの実践活動」[12]
- 2007年(平成19年)1月15日 - 従四位[13]
家族
[編集]- 山添武治(たけじ) - 父、元酒屋、元自由民権運動家、実業家、新潟毎日新聞社創業者・専務理事。板垣退助の遊説に同行して見聞を広め、山際七司の活動を支援[14]。萩野左門、加藤勝弥、小柳調平[注 5]たちと『新潟毎日新聞』を創刊[15]。
- 山添柱(ことぢ) - 母。
- 山添武(たけし) - 長兄、元新潟中学校水泳部員、元農民運動家・松山武、元新潟市役所社会課主事補、元新潟師範学校英語教諭。1920年(大正9年)6月第四高等学校卒業[注 6]、1923年(大正12年)3月東京帝国大学法学部政治学科卒業。
- 山添孝(こう) - 姉。
- 山添直(なおし) - 次兄、元新潟中学校水泳部員、元農民運動家・松山止才、実業家、元小田急不動産社長、元小田急電鉄顧問。1925年(大正14年)3月新潟高等学校卒業、1928年(昭和3年)3月東京帝国大学経済学部経済学科卒業。
- 山添正(まさ) - 妹。
著作物
[編集]著書
[編集]- 『ロマノフカ村の話』牡丹江鐵道局[編]、滿洲事情案内所〈東満開発叢書 第2輯〉、1941年。
- 『疲勞硏究の共同實驗』林髞・岡本彰祐・名取礼二・古武弥正・大島正光・堀内一弥・ほか[共著]、学術研究会議疲労研究班[編]、創元社〈社会医学叢刊 第13輯〉、1950年。
- 『生理學講座 第9卷 榮養の生理』吉川春寿・藤田秋治・児玉桂三・高橋忠雄[共著]、日本生理学会[編]、中山書店内 生理学講座刊行会、1950年。
- 『ESPERANTA MEDICINA LITERATURO Titolaro de Medicinaj Artikoloj en MR kaj MIR (1951-1986)』出版者不明、1987年。
- 『LA VIVO KAJ AGADO DE D-RO HIDEO SHINODA - PATRO DE UMEA』Tadokoro Sakutaro[共著]、Włodzimierz Opoka[編]、UMEA Shinoda-Kuracejo、2001年。
- 『ANGLA-ESPERANTA MEDICINA TERMINARO』UMEA Shinoda-Kuracejo、2001年。
- 『KELKAJ KOMENTOJ kaj ERATUMO kun ŜANĜOJ pri ANGLA-ESPERANTA MEDICINA TERMINARO』UMEA Shinoda-Kuracejo、2004年。
- 『ESPERANTA-ANGLA MEDICINA TERMINARO』UMEA Shinoda-Kuracejo、2006年。
訳書
[編集]写真集
[編集]- 『Дни в Романовке(ロマノフカ村の日々) (PDF) 』Накамура Ёсикадзу[解説]、Программа «Первая публикация»、2012年。
論文
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b 東京移転から戦中・戦後にかけて(1937(昭和12)年~1952(昭和27)年) | 沿革 | 研究所について | 公益財団法人 大原記念労働科学研究所
- ^ 『暉峻義等博士と労働科学』155頁。
- ^ 『暉峻義等博士と労働科学』158頁。『労働科学研究所60年史話 創立60周年記念』146頁。
- ^ 『暉峻義等博士と労働科学』195頁。『労働科学研究所60年史話 創立60周年記念』171頁。
- ^ 『暉峻義等博士と労働科学』197頁。
- ^ 『日本近現代 医学人名事典 1868-2011』637頁。
- ^ 満州のロシア人写真展開催 - ロシア・ビヨンド - ロシア新聞、2012年。
- ^ 『21世紀フォーラム』第107号、4頁。『ロシアの空の下』3-59頁。
- ^ 「中村喜和著『ロシアの空の下』を読んで」『風のたより』第51号、望月哲男[著]、風行社、2014年。
- ^ 『毎日新聞』2012年12月26日付夕刊、6面。『讀賣新聞』2013年7月13日付朝刊、6面。
- ^ 「叙位・叙勲」『官報』号外第26号、49頁、大蔵省印刷局、1980年5月6日。
- ^ 小坂賞 & 特別学術功労賞 | 一般財団法人 日本エスペラント協会
- ^ 「叙位・叙勲」『官報』第4527号、8頁、国立印刷局、2007年2月21日。
- ^ 『黒埼町史 通史編』367頁。
- ^ 『新潟日報二十五年史』35・47・49頁。
参考文献
[編集]- 「山添三郎」『日本近現代 医学人名事典 1868-2011』637頁、泉孝英[編]、医学書院、2012年。
- 『労働科学研究所60年史話 創立60周年記念』労働科学研究所[編]、労働科学研究所、1981年。
- 「開拓科学研究所」『暉峻義等博士と労働科学』154-159頁、鈴木慎次郎[著]、労働科学研究所内 暉峻義等博士追憶出版刊行会、1967年。
- 「三菱美唄労働科学研究所」『暉峻義等博士と労働科学』193-198頁、山添三郎[著]、労働科学研究所内 暉峻義等博士追憶出版刊行会、1967年。
- 「満鉄開拓科学研究所設立の経緯と調査研究活動 (PDF) 」『満族史研究』第4号、197-209頁、大出尚子[著]、満族史研究会、2005年。
- 「満鉄の遺産 山添三郎先生のことなど (PDF) 」『21世紀フォーラム』第107号、4頁、中村喜和[著]、政策科学研究所、2007年。
- 「『ロマノフカ村の日々』が世に出るまで」「旧教徒たち」『ロシアの空の下』3-59頁、中村喜和[著]、風行社、2014年。
- 「旧満州 息づいたロシア文化 亡命の「古儀式派」 日本人研究者が記録 写真集に」『毎日新聞』2012年12月26日付夕刊、6面、毎日新聞社、2012年。
- 「日本人が撮った 満州ロシア人村 露で評価 写真集に」『讀賣新聞』2013年7月13日付朝刊、6面、読売新聞社、2013年。
- 『新潟日報二十五年史』新潟日報社史編集委員会[編]、新潟日報社、1967年。
- 『黒埼町史 通史編』黒埼町[編]、黒埼町、2000年。
関連文献
[編集]- 「全国各地から参集 青山水友会 (PDF) 」『青山同窓会會報』第7号、7面、青山同窓会、1968年。
- 「水友会員 奥利根に参集 (PDF) 」『青山同窓会會報』第8号、5面、水野清之助[著]、青山同窓会、1969年。
- 「青山水友会 東京に集う (PDF) 」『青山同窓会會報』第12号、7面、水野清之助[著]、青山同窓会、1971年。
- 「青山水友会 東京に集う (PDF) 」『青山同窓会會報』第19号、5面、水野清之助[著]、青山同窓会、1974年。
- 「三三健児 ここに在り (PDF) 」『青山同窓会會報』第36号、6面、永井行蔵[著]、青山同窓会、1983年。
- 「追悼 山添三郎名誉教授を偲ぶ」『群馬大学医学部刀城クラブ会報』第204号、13面、田所作太郎[著]、群馬大学医学部同窓会、2007年。
- 「創立10周年の教授 (PDF) 」『群馬大学医学部 昭和キャンパスの今昔』7頁、田所作太郎[編]、群馬大学医学部同窓会、2007年。