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山田智千

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山田 智千
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 奈良県
生年月日 1946年9月21日
身長
体重
176 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
  • 日立製作所

山田 智千(やまだ としゆき、1946年9月21日 - )は、日本の奈良県出身の元アマチュア野球選手、監督である。ポジションは外野手中堅手)。

来歴・人物

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御所工業高校ではエースとして2年次の1962年春の選抜に出場。1回戦は松谷栄司を擁する北海高との乱打戦の末に打ち勝つ。2回戦では松山商と対戦、好投するが山下律夫投手を攻略できず1-2で敗退した[1]。3年次の1963年春の選抜に2年連続出場を果たす。準々決勝に進み、この大会に優勝した下関商のエース池永正明と投げ合い2点をリードするが、9回に3点を失い逆転負けを喫した[1]。同年の春季近畿大会では決勝でエース戸田善紀を擁するPL学園高を降して優勝。夏の甲子園県予選でも決勝に進むが、高田高に惜敗した。高校同期に東田正義元田昌義がいる。高校卒業後は社会人野球の日立製作所に入社し野手転向。中堅手、一番打者として活躍する。

1967年のドラフト会議西鉄ライオンズから8位指名されたが交渉権放棄によりチームに残留した[2]1972年都市対抗は準々決勝で日本楽器に9回サヨナラ負けを喫する[3]が、この大会で3本塁打、打率.583を記録し、首位打者賞、優秀選手賞を獲得。同年は社会人ベストナインに選出され、アマチュア野球世界選手権日本代表にも選ばれた。1973年都市対抗でもエース佐藤博を擁し勝ち進む。しかし日本鋼管との準決勝では投手陣が打ち崩され、古屋英雄上岡誠二の継投に屈し大敗[3]1976年都市対抗では同チーム所属の岡安豊とともに10年連続出場選手として表彰を受ける[3]

1975年から4年間は選手兼任監督を務め、1985年から11年間、専任で監督を務めた。

脚注

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  1. ^ a b 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  2. ^ 過去のドラフト 第3回(1967年) - ドラフト会議 : 日刊スポーツ”. nikkansports.com. 2020年6月25日閲覧。
  3. ^ a b c 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年