岩倉恒具
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元禄14年7月24日(1701年8月27日) |
死没 | 宝暦10年7月29日(1760年9月8日) |
改名 | 具修(具脩)、恒具 |
戒名 | 覚円院 |
官位 |
従二位、権中納言 贈正二位 |
主君 | 中御門天皇→桜町天皇→桃園天皇 |
氏族 | 岩倉家 |
父母 | 父:岩倉乗具、母:家女房 |
兄弟 | 恒具、千種有敬、植松賞雅 |
妻 | 本多長員の娘 |
子 |
養子:岩倉尚具 重恒(八幡杉本坊)[1] |
岩倉 恒具(いわくら つねとも)は、江戸時代中期の公卿。官位は従二位・権中納言。正二位追贈[1][2]。宝暦勤王二十廷臣の一人[3]。
経歴
[編集]元禄14年(1701年)、岩倉乗具の子として生まれる[1]。母は家女房[1]。初名は具修[1](具脩[2])。兄弟は千種有敬、植松賞雅[1]。
宝永元年(1704年)に従五位下に叙爵。正徳4年(1714年)に元服とともに従五位上侍従となる。享保3年(1718年)に正五位下。享保4年(1719年)に恒具と改名する。その後も累進し、左近衛少将と右近衛中将を経て、享保17年(1732年)に従三位に達して公卿に列した。その後、正三位・参議・左近衛中将を経て宝暦3年(1753年)に従二位権中納言となったが、宝暦8年(1758年)に宝暦事件に連座。
宝暦10年(1760年)7月29日 、死去した[3][1]。60歳[2]。号は覚円院[1]。
弟・植松賞雅の子・尚具を養子とした[1]。
系譜
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 今井堯ほか 編『日本史総覧』 補巻《中世三・近世三》、児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修、新人物往来社、1984年11月15日。NDLJP:12192955/180。(要登録)
- 坂本武雄 編『公卿辞典』七丈書院、1944年10月5日。NDLJP:1123765。(要登録)
関連項目
[編集]外部リンク
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