植松賞雅
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 宝永2年7月24日(1705年9月11日) |
死没 | 天明5年10月26日(1785年11月27日) |
改名 | 岩倉具金、植松賞雅 |
別名 | 花号:五大坊 |
官位 | 権中納言、参議、右近衛中将、従二位 |
主君 | 中御門天皇→桜町天皇→桃園天皇→後桜町天皇→後桃園天皇 |
氏族 | 岩倉家→植松家 |
父母 |
父:岩倉乗具、母:家女房 養父:植松雅孝 |
兄弟 | 岩倉恒具、千種有敬、賞雅 |
子 |
岩倉尚具、岩倉広雅 養子:幸雅 |
植松 賞雅(うえまつ たかまさ)は、江戸時代中期の公卿・華道家。官位は権中納言、参議、右近衛中将、従二位[1][2]。中御門天皇(114代)・桜町天皇(115代)・桃園天皇(116代)・後桜町天皇(117代)・後桃園天皇(118代)の五代にわたって仕えた。
華道家としては松月堂古流の継承者として知られる。
経歴
[編集]宝永2年(1705年)、岩倉乗具の三男として生まれた[1][2]。京都の岩倉邸で生まれた。母は家女房[1]。初名は具金[1][2]。
正徳3年(1713年)に叙爵。享保5年(1720年)に当時子がなかった宮内卿・植松雅孝の養子に入った。植松家は岩倉家の分家千種家のそのまた分家にあたる。享保6年(1721年)に元服し、植松家の通し字「雅」を使った「賞雅」と改名。その後、右近衛権少将や右近衛権中将を経て元文3年(1736年)に従三位となり、公卿に列した。
延享4年(1747年)正三位に昇進。宝暦4年(1754年)に参議。宝暦7年(1757年)に従二位となり、明和5年(1768年)に権中納言となっている。
なお、養父・雅孝には賞雅の養子入り後に実子・幸雅が生まれていた。そのため、賞雅には実子がいながらも幸雅を養子に迎えて後を継がせている。賞雅の実子二人は実家岩倉家の養子に入っている(岩倉尚具・岩倉広雅)。
天明5年(1785年)10月26日、死去[2][1]。81歳[2]。
華道家としても事績を残した。是心軒一露に師事して華道を学び、五大坊の花号をもらっている。一露の第一の高弟として知られ、一露が創設した華道の流派「松月堂古流」は、賞雅が継承して以降、植松家が代々継承し、京都や付近の諸国の寺社に広められていくことになる。晩年に花号を和光庵卜友に譲っている。
系譜
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 今井堯ほか 編『日本史総覧』 補巻《中世三・近世三》、児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修、新人物往来社、1984年11月15日。NDLJP:12192955。(要登録)
- 坂本武雄 編『公卿辞典』七丈書院、1944年10月5日。NDLJP:1123765。(要登録)
外部リンク
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