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川勝秀氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
川勝秀氏
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 弘治元年(1555年[1]
または天正3年(1575年[2][3]
死没 慶長12年5月26日1607年7月19日
別名 通称:彦治郎、右兵衛大夫、右衛門尉、主水正、法名:理安
墓所 京都二條妙満寺末の法恩寺(現在は東京都新宿区正妙山法恩寺
官位 従六位上主水正
幕府 室町幕府江戸幕府 旗本
主君 足利義輝織田信長豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠
氏族 川勝氏秦氏[4]
父母 父:川勝継氏、母:某氏
兄弟 秀氏重氏氏久、三右衛門
正室:綾小路中納言の娘
広綱、女(西洞院時直室)
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川勝 秀氏(かわかつ ひでうじ)は、戦国時代の武将、安土桃山時代の小大名、後に江戸時代前期の旗本。秀氏流川勝家(本家)の初代当主。

生涯

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弘治元年(1555年[1]室町幕府13代将軍足利義輝奉公衆川勝継氏の嫡男として、丹波国桑田郡中山[5]または北桑田郡美山町(現南丹市)静原の島城に生まれた。

父と同じく義輝に仕えるが、足利将軍家の没落後は、織田家に転じた[5]

天正5年(1577年)、織田信長に従って紀州征伐に参陣した。戦功によって感状を賜る[5]

その後、豊臣秀吉馬廻を務めて、「秀」の一字を拝領して秀氏と称した[5]

天正10年(1582年)9月9日、丹波国何鹿郡内に3,535石を秀吉より与えられた。父継氏の家督を継ぎ、丹波内1万石余を領していたとされる。

文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役では、肥前名護屋城に在陣し、御後備衆の1つとして70名を率いた[6]。この頃、従六位上主水正に叙任された。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、小野木重次に率いられた丹波・但馬の諸大名とともに西軍に与して、細川幽斎が拠る丹後田辺城攻撃(田辺城の戦い)に参加した[7]。その後(もとより東軍に通じていたため[5])、徳川家康から赦免を受けて小野木重次が拠る福知山城を攻撃し、改易を免れることができた[8]。戦後、丹波国何鹿郡内から丹波国氷上郡船井郡内に転封となり[9]、家康の命を受け丹波黒井城の最後の城主を務めた。

慶長6年(1601年)、室町期以来の丹波の旧族、細川三斎の推挙により召し出されて、秀氏は旗本家を興した。家紋は桐に鳳凰、釘抜、五三桐。通し字は「」。

慶長11年(1606年駿府城造営の奉行し、同年3月25日、勤めの褒賞として御書を給わった。

慶長12年(1607年)5月26日に没した。『寛永諸家系図伝』によれば享年は53、『寛政重修諸家譜』では33。家督を嫡男の広綱が継いだ。

脚注

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  1. ^ a b 生年は『寛永諸家系図伝』によった。『寛政重修諸家譜』によれば、生年は天正3年(1575年)となるが、同時に永禄8年(1565年)に亡くなったはずの義輝に仕えたともあるので、前者に従った。
  2. ^ 堀田 1923, p. 184.
  3. ^ 阿部 1990, p. 263.
  4. ^ 秦河勝の後裔を称す。
  5. ^ a b c d e 堀田 1923, p. 183
  6. ^ 『松浦古事記』による。
  7. ^ この戦いでは、幽斎が承継した『古今伝授』を残そうとした後陽成天皇の勅使によって、幽斎が救われた話は有名である。
  8. ^ 西軍のほとんどが所領没収となった中、細川幽斎が拠る田辺城攻撃に参加した多くが所領安堵となっている(関ヶ原の戦いの戦後処理)。秀氏の減封の多寡に関しては不詳。
  9. ^ 同時に広綱は丹波国多紀郡・船井郡内から丹波国船井郡内に転封となった。

参考文献

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  • 『寛永諸家系図伝(第14)』続群書類従完成会、1992年
  • 堀田正敦『国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重脩諸家譜. 第7輯』國民圖書、1923年、183-184頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082721/102 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』(コンパクト版)新人物往来社、1990年、263-264頁。ISBN 4404017529 

関連項目

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先代
継氏
川勝継氏系秀氏流(本家)
初代:1601年 - 1607年
次代
広綱