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川勝継氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
川勝継氏
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 享禄4年(1531年
死没 慶長7年3月21日1602年5月12日
別名 大膳亮、兵部大輔、備後守(通称
永運(法名)
墓所 京都市の智恩寺
官位 備後守
幕府 室町幕府奉公衆
主君 足利義輝義昭織田信長明智光秀)→豊臣秀吉
氏族 川勝氏
父母 父:川勝広継(光照)または川勝光隆
兄弟 継氏知氏、監物、喜内、左馬丞
秀氏重氏氏久、三右衛門
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川勝 継氏(かわかつ つぐうじ)は、戦国時代から安土桃山時代武将丹波国衆

略歴

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寛政重修諸家譜(重修譜)』によれば、川勝氏の本姓は秦氏で、秦河勝の後裔とされ、河勝(川勝)を家号としたという[1]

享禄4年(1531年)に生まれた。『重修譜』によれば川勝広継(光照)の子というが[2][1]天文18年(1549年)に三好方の丹波守護代内藤貞勝(備前守)と戦っている川勝光隆の子ではないかともいう[3]

丹波国桑田郡船井郡内を知行し、桑田郡今宮に住んで、室町幕府13代将軍足利義輝奉公衆として仕えた[3]

天正元年(1573年)、15代将軍・足利義昭織田信長が対立すると信長に属した。信長の命を受けた長岡藤孝に従って、山城国淀城攻め(第二次淀古城の戦い[4]に参加している[3]

天正3年(1575年)、信長より明智光秀の丹波派遣について知らされ、忠節を促されている[3]

天正4年(1576年)以後、明智光秀の与力となって丹波攻略に協力。継氏は同じ丹波の国衆相手に戦って、信長により戦功を賞された[3]

天正10年(1582年)6月に本能寺の変が起こると光秀には従わなかったらしく、同年9月9日には嫡男・秀氏羽柴秀吉により丹波国何鹿郡内で3,535石を与えられている[3]。以降は秀吉に仕えるが、すでに隠居していたらしい[3]。丹波国桑田郡中山を与えられる[2]

慶長3年(1598年)、初めて徳川家康に謁見した[1]。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは秀氏・広綱が西軍に加わって田辺城の戦いに参加したため、細川忠興(三斎)の取り直しで川勝氏は改易こそ免れたが[1]、継氏の所領(桑田郡中山)は没収された[2]

慶長7年(1602年)3月21日、死去。享年72。

脚注

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  1. ^ a b c d 堀田 1923, p. 183.
  2. ^ a b c 阿部 1990, p. 263.
  3. ^ a b c d e f g 谷口 1995, p. 140.
  4. ^ 足利義昭の求めに応じて、岩成友通が淀古城に立て篭もって奮戦したが討ち取られた。

参考文献

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  • 『寛永諸家系図伝(第14)』続群書類従完成会、1992年
  • 堀田正敦『国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重脩諸家譜. 第7輯』國民圖書、1923年、183頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082721/102 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』(コンパクト版)新人物往来社、1990年、263頁。ISBN 4404017529 
  • 谷口克広; 高木昭作(監修)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年、140頁。ISBN 4642027432