川勝継氏
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 享禄4年(1531年) |
死没 | 慶長7年3月21日(1602年5月12日) |
別名 |
大膳亮、兵部大輔、備後守(通称) 永運(法名) |
墓所 | 京都市の智恩寺 |
官位 | 備後守 |
幕府 | 室町幕府奉公衆 |
主君 | 足利義輝→義昭→織田信長(明智光秀)→豊臣秀吉 |
氏族 | 川勝氏 |
父母 | 父:川勝広継(光照)または川勝光隆 |
兄弟 | 継氏、知氏、監物、喜内、左馬丞 |
子 | 秀氏、重氏、氏久、三右衛門 |
川勝 継氏(かわかつ つぐうじ)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。丹波の国衆。
略歴
[編集]『寛政重修諸家譜(重修譜)』によれば、川勝氏の本姓は秦氏で、秦河勝の後裔とされ、河勝(川勝)を家号としたという[1]。
享禄4年(1531年)に生まれた。『重修譜』によれば川勝広継(光照)の子というが[2][1]、天文18年(1549年)に三好方の丹波守護代・内藤貞勝(備前守)と戦っている川勝光隆の子ではないかともいう[3]。
丹波国桑田郡・船井郡内を知行し、桑田郡今宮に住んで、室町幕府13代将軍・足利義輝に奉公衆として仕えた[3]。
天正元年(1573年)、15代将軍・足利義昭と織田信長が対立すると信長に属した。信長の命を受けた長岡藤孝に従って、山城国の淀城攻め(第二次淀古城の戦い)[4]に参加している[3]。
天正3年(1575年)、信長より明智光秀の丹波派遣について知らされ、忠節を促されている[3]。
天正4年(1576年)以後、明智光秀の与力となって丹波攻略に協力。継氏は同じ丹波の国衆相手に戦って、信長により戦功を賞された[3]。
天正10年(1582年)6月に本能寺の変が起こると光秀には従わなかったらしく、同年9月9日には嫡男・秀氏が羽柴秀吉により丹波国何鹿郡内で3,535石を与えられている[3]。以降は秀吉に仕えるが、すでに隠居していたらしい[3]。丹波国桑田郡中山を与えられる[2]。
慶長3年(1598年)、初めて徳川家康に謁見した[1]。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは秀氏・広綱が西軍に加わって田辺城の戦いに参加したため、細川忠興(三斎)の取り直しで川勝氏は改易こそ免れたが[1]、継氏の所領(桑田郡中山)は没収された[2]。
慶長7年(1602年)3月21日、死去。享年72。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『寛永諸家系図伝(第14)』続群書類従完成会、1992年
- 堀田正敦『国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重脩諸家譜. 第7輯』國民圖書、1923年、183頁 。
- 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』(コンパクト版)新人物往来社、1990年、263頁。ISBN 4404017529。
- 谷口克広; 高木昭作(監修)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年、140頁。ISBN 4642027432。