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川原凡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

川原 凡(かわはら の おおし、生没年不詳)は、奈良時代人物[1]のち蔵人、[2]官位従五位下紫微大疏

出自

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河原(川原)の氏の名称は、河内国丹比郡丹比村大字河原城(現在の大阪府羽曳野市河原城)の地名に基づくものと思われ、『新撰姓氏録』「河内国諸蕃」によると、「河原連」は「広階連同祖」とあり、同じく「河内国諸蕃」には「河原蔵人」は「上村主同祖」とあり、ともに、「陳思王植之後也」となっている。神亀2年(725年)、河内国丹比郡の人である河原椋人(かわちのくらひと)子虫ら46人に川原史という氏姓を与えた、という記事がある[3]

経歴

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天平10年(738年)頃の官人歴名に西史生、膳司大初位上と見える[1]

その後、光明皇后に仕えたことが史料に散見している。天平17年(745年)4月、従八位下中宮職少属として同職に署している。ただし「仮」とも記されている[4]、翌18年(746年)3月、従七位下皇后宮職少属として同職に署している[5][6][7]。同年閏9月、その宣により造東大寺司内裏に請経している[8]。同19年(747年)正月にも少属、従七位下とあり[9]、またその宣により造東大寺司は北大臣家に法華経を請経している[10]天平勝宝4年(752年)7月、紫微大疏従六位下として、紫微中台牒に署し[11]、同8歳(756年)4月も紫微大疏正六位上として、紫微中台牒に署している[12]。以上の史料には、最初の官人歴名を除くと、蔵人というを名乗っている。

天平勝宝9歳(757年聖武上皇の一周忌に、同9歳(757年)5月、食三田次益田縄手大蔵家主土師犬養土師弟勝上毛野真人とともに従五位下に昇叙している。この時は姓である[2]

官歴

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注記のないものは『続日本紀』による

脚注

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  1. ^ a b 『大日本古文書』巻廿四 - 84頁・86頁
  2. ^ a b 『続日本紀』巻第二十、孝謙天皇 天平勝宝9歳5月20日条
  3. ^ 『続日本紀』巻第九、聖武天皇 神亀2年7月5日条
  4. ^ 『大日本古文書』巻二 - 399頁
  5. ^ 『寧楽遺文』下巻745頁
  6. ^ 『大日本古文書』巻九 - 139頁
  7. ^ 『東南院文書』巻三 - 121頁
  8. ^ 『大日本古文書』巻廿四 - 408頁
  9. ^ 『大日本古文書』巻九 - 330頁
  10. ^ 『大日本古文書』巻三 - 414頁
  11. ^ 『大日本古文書』巻三 - 585頁
  12. ^ 『大日本古文書』巻四 - 103頁、廿五 - 182頁

参考文献

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