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平岡倭文重

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ひらおか しずえ

平岡 倭文重
生誕 橋 倭文重
1905年2月18日
日本の旗 日本東京市小石川区指ヶ谷町92番地(現・東京都文京区白山
死没 (1987-10-21) 1987年10月21日(82歳没)
日本の旗 日本・東京都港区虎ノ門
虎ノ門病院
死因 心不全
墓地 日本の旗 日本多磨霊園
国籍 日本の旗 日本
出身校 三輪田高等女学校(現・三輪田学園中学校・高等学校
配偶者 平岡梓
子供 公威(長男)、美津子(長女)
千之(次男)
橋健三(父)、トミ(母)
親戚 瀬川朝治(祖父)、ソト(祖母)
橋健堂(祖父)
橋健行(兄)
紀子威一郎(孫)
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平岡 倭文重(ひらおか しずえ、1905年明治38年)2月18日 - 1987年昭和62年)10月21日)は、作家三島由紀夫(本名:平岡公威)の母。漢学者橋健三の次女。加賀藩漢学者橋健堂の孫。少年時代の三島由紀夫の文学的才能を発見し、その成長を励ました。

生涯

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1905年(明治38年)2月18日(土曜日)、倭文重は東京の小石川区指ヶ谷町92番地(現・東京都文京区白山)で、父・橋健三と母・トミの間に次女として生まれた[1]。橋家は、代々金沢藩主・前田家に仕えていた儒者の家系であった[1][2]。父・橋健三は漢学者で、東京開成中学校の5代目校長を務めた[1][2]。倭文重の上には、健行、雪子、正男、健男、行蔵、の兄と姉、下には、妹・重子がいる[1]。倭文重は文学少女として、詩歌や小説に親しむ青春期を過ごした[1][3]。1922年(大正11年)に三輪田高等女学校(現・三輪田学園中学校・高等学校)を卒業した[1]

1924年(大正13年)4月19日、倭文重は平岡梓と結婚。平岡梓は開成中学校から旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業した農商務省勤務の官僚であった[1]。翌年の1925年(大正14年)1月14日に長男・公威を儲ける[1]

ところが生まれたばかりの公威は、「赤ん坊に2階は危い」という理由で、姑である夏子坐骨神経痛を病む病室内で養育されることとなり、倭文重が公威と接することが出来るのは授乳の時や、許された僅かな散歩の時間だけとなってしまった[4]。こうした、父母と引き離された生活は公威が学習院中等科に入るまで続いた(詳細は三島由紀夫#幼年期と「詩を書く少年」の時代参照)。この期間の不自然な母子関係は公威の人格形成と、その後の母子関係に大きな影響を与えたのみならず、こうした状態を放置し傍観していた夫・梓に対する倭文重の内攻した敵意も育まれていった[5]。この頃の母について三島は以下のように語っている[3]

若いころの母は大へん美人であつた。(中略)母親は、私にとつて、こつそり逢引きする相手のやうなもの、ひそかな、人知れぬ恋人のやうなものであつた。母には、姑との間の苦労や、子供を姑に独占された悲しみや、いろいろな悩みはあつたらしいが、子供の私には、さういふ悩みは見えなかつた。そして、たまにこつそりと母に連れられて出る日が、私の幼時の記憶の中で、まるで逢引きの日のやうに美しく美しく残つてゐた。 — 三島由紀夫「母を語る――私の最上の読者」[3]

祖母の監督下にあって男の子らしい遊びを禁じられていた公威は、小学生時代から祖母の好きな歌舞伎泉鏡花などの小説を好み、高学年になると学習院の同学友誌『輔仁会雑誌』に俳句を発表するようになっていた。13歳の時には幼児期に母と散歩に出かけた時の記憶をモチーフにした短篇小説「酸模すかんぽ――秋彦の幼き思ひ出」を執筆、ようやく同居が叶った長男の目覚ましい文学的才能に倭文重は驚くと同時に、何としてもこの子の才能を開花させたいと決心した。

母は私に天才を期待した。そして、自分の抒情詩人の夢が息子に実現されることを期待した。(中略)私は、抒情詩人でもなく天才でもなく、散文作家として成長するやうになつたが、長いこと、その抒情的な夢から抜けられなかつた。私は無意識のうちに、母の期待するやうな者にならうとしてゐたのであらうと思ふ。なぜなら、物心つくと同時に私は詩を書き始めたからである。私の詩や物語の最初の読者は母であつた。母は、私に芸術的才能があるといふことを誇りにした。 — 三島由紀夫「母を語る――私の最上の読者」[3]

1940年(昭和15年)1月、倭文重は、詩人・川路柳虹に公威を師事させた[3]。息子の才能を認めず、自分同様官吏の道を歩ませたがっていた夫・梓が公威の書きかけの原稿を破り捨てた後には、買っておいた新しい原稿用紙を揃えたりして、太平洋戦争に向かう暗い環境の中、倭文重は公威が文学の道に邁進出来るよう、献身的な努力を傾けた[6]。1941年(昭和16年)からペンネームが三島由紀夫となってからの公威も、母の愛情に感謝を忘れず、原稿を書き上げるとすぐに母に読んでもらう習慣を晩年まで続けていた[7]。1945年(昭和20年)2月に召集令状が来て三島が家を出発する際には、髪をふり乱して泣きながら門で見送っていた[7][6]。その姿を鮮明に憶えている三島は、「そのまま兵隊に行つてしまへば、実に可愛い息子といふ印象が、母にも残つただらうと思ふ」と語っている[7]

初期の作品『仮面の告白』(1949年)、『愛の渇き』(1950年)の著作権が、三島の遺言によって他の著作とは別に、倭文重に贈られたことも三島の母への深い愛情の表現であった[注釈 1]。その親子の仲良しぶりは三島が1958年(昭和33年)6月、杉山瑤子と結婚した際に、その理由を周囲に、「と診断された母・倭文重を安心させるため」と説明したほどであった[8][注釈 2]。しかし、母親の病気前から身を固める宣言をしていた三島は、「私は、この母の大病のために結婚したわけでは毛頭ない」と述べている[3]。また、実際にも、母・倭文重の病気発覚の前年1957年(昭和32年)から三島は、聖心女子大学在学の独身時代の上皇后美智子ともお見合いをしている[9][10]。杉山瑤子の見合い写真を渡されたのも、母の病気発覚前である。さらに1954年(昭和29年)8月から約3年半、交際していた後藤貞子(旧姓・豊田貞子)という結婚寸前の女性もいた[11][12][13]。なお癌との診断は誤診であったことが挙式前に判明している[3]。1962年(昭和42年)頃からは、第二の人生として家庭裁判所調停委員の仕事を始めていた[7]

三島が『憂国』(1961年)、『英霊の聲』(1966年)などを発表し、楯の会の活動に熱中し、死への関心を隠さなくなるようになると、倭文重はこれを敏感に察知し、息子の背中に、「あなた死んでしまっては駄目ですよ」と呼びかけたくなる衝動に駆られたこともあったが[14]、その予感が確信に変わる前の1970年(昭和45年)11月25日、三島事件によって最愛の息子は世を去ってしまう。外出先から帰宅した倭文重は何も言わず、自宅玄関の三和土にペタリと座り込んでしまったと言う[14][注釈 3]

三島の死後も、遺作となった『豊饒の海』の底流に流れる仏教哲学を理解しようと大学の聴講生になるなど、息子の死の秘密を理解しようと努めていた。夫・梓が文藝春秋から刊行した著書『倅・三島由紀夫』(1972年)、『倅・三島由紀夫(没後)』(1974年)には、「あなた(梓)みたいな水牛のような行動一点張りの人、無神経な人には、公威の心なんててんで判りっこはありません」、「公威の本当の心の判るのはあたしたった一人なんです」[14]という断定と共に、倭文重の独白が豊富に盛り込まれており、事実上の共著となっている。また自分の名前でも、「暴流のごとく――三島由紀夫七回忌に」(新潮 1976年12月号)を発表している[5]

1976年(昭和51年)12月18日に夫・が死亡。その後、倭文重は晩年には脳梗塞に倒れ、虎ノ門病院分院に入院した。幻覚症状も伴っており、「死んだ息子の姿だけ残し、夫の姿は消して欲しい」と医師に要求したという話が伝わっている。退院後は邸内の離れには戻らず[注釈 4]、1981年(昭和56年)1月に東京都世田谷区用賀の老人ホーム「フランシスコ・ビラ」に入居し、そこで余生を送った[15][16]。1987年(昭和62年)10月21日の午後3時、心不全のため、虎ノ門病院で82歳にて死亡[17][16]。告別式は10月24日、東京都港区愛宕青松寺で営まれた[18]

三島の他、長女・美津子(1928年-1945年・敗戦直後に腸チフスにより17歳で夭折)、弟・千之(1930年-1996年・ 外交官・元迎賓館館長)の二男一女を育てた[1]

家族・親族

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祖父・橋健堂漢学者書家
父・健三(漢学者、東京開成中学校の5代目校長)
母・トミ(橋健堂の五女)
橋健三の妻であった姉・こうの死去に伴い、16歳の時に健三の後妻となった。
1938年(昭和13年)、公威は中等科2年の時、トミに連れられて初めてを観た。初めて目にした能が『三輪』であった。『三輪』は、世阿弥の作と伝えられる四番目物であり、三輪明神が顕現する。『奔馬』で本多繁邦と飯沼勲が邂逅する場所は、わが国最古の神社で、謡曲の『三輪』の舞台となった大神神社である。 『三輪』では、杉の木陰から声がして、玄賓僧都の前に女人の姿の三輪明神が現れる。三輪明神は、神も衆生を救う方便としてしばらく迷いの深い人の心を持つことがあるので、罪業を助けて欲しいと訴える。三輪の妻問いの神話を語り、天照大神の天の岩戸隠れを物語って、夜明けとともに消えてゆく。謡曲『三輪』は、「夢の告、覚むるや名残なるらん、覚むるや名残なるらん」(現代訳:夢のお告げが、覚めてしまうのは、実に名残惜しい、まことに名残惜しいことだ)という美しい詞章で終わる。この詞章は、三島の遺作『豊饒の海』の大団円に通じる[2]
兄弟姉妹
健行精神科医医学博士
雪子、正男、健男
行蔵(横浜正金銀行(現・三菱UFJ銀行マニラ駐在員。昌平中学校長)
行蔵は父・橋健三の跡を継ぎ、夜間中学開成予備学校・昌平中学の校長となり、のち予備校・正修英語学校を設立した。この学校には吉村昭が通っていたという。
重子
夫・平岡梓農商務官僚)
長男・公威(作家)
長女・美津子
二男・千之(外交官)
孫・紀子演出家
孫・威一郎(元実業家

系譜

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橋家系図
 
 
 
 
 
往来
 
船次郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
橋一巴
 
 
 
 
 
 
 
つね
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
健堂
 
 
ふさ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
こう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
橋健行
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
瀬川健三
 
 
雪子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
橋正男
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
トミ
 
 
橋健雄
 
 
平岡公威(三島由紀夫)
 
 
紀子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
より
 
 
橋行蔵
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ひな
 
 
倭文重
 
 
杉山瑤子
 
 
平岡威一郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
美津子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
平岡梓
 
 
平岡千之
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
重子
 
 
 
 
 
 
 
 
 

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 倭文重、瑤子没後は、他の三島作品と同様の扱いとなっている。
  2. ^ この発言の背景には三島の同性愛があるとネイスンは推測した[8]
  3. ^ 東京都大田区南馬込に現存するロココ風の三島邸の、地続きにあった木造家屋(現存せず)に住んでいた。
  4. ^ 平岡瑤子の項に、この間の事情が記載されている。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i 「II 三島由紀夫の祖先を彩る武家・華族・学者の血脈」(越次 1983, pp. 71–140)
  2. ^ a b c 岡山典弘「三島由紀夫と橋家 もう一つのルーツ」(研究11 2011, pp. 112–127)
  3. ^ a b c d e f g 「母を語る――私の最上の読者」(婦人生活 1958年10月号)pp.126-131。30巻 2003, pp. 648–661
  4. ^ 「第二章」(梓 1996, pp. 31–47)
  5. ^ a b 平岡倭文重「暴流のごとく――三島由紀夫七回忌に」(新潮 1976年12月号)。群像18 1990, pp. 193–204、年表 1990, pp. 17, 21, 172, 192
  6. ^ a b 「第三章」(梓 1996, pp. 48–102)
  7. ^ a b c d 「紫陽花の母」(潮文社 1967年10月)。34巻 2003, pp. 553–557
  8. ^ a b 「第五部 三島由紀夫と結婚・『金閣寺』から『鏡子の家』まで」(ネイスン 2000, pp. 165–206)
  9. ^ 「第六章 『和漢朗詠集』の一句」(徳岡 1999, pp. 133–156)
  10. ^ 「美智子さまと三島由紀夫のお見合いは小料理屋で行われた」(週刊新潮 2009年4月2日号)
  11. ^ 「第四章 時計と日本刀」(猪瀬 1999, pp. 321–449)
  12. ^ 「わたり初め」(岩下 2008, pp. 44–53)
  13. ^ 「三章 贅澤な彼女――梨園と花街とに室咲きの」(岩下 2016, pp. 59–100)
  14. ^ a b c 「第一章」(梓 1996, pp. 7–30)
  15. ^ 「倭文重の思い出」(川島 1996, pp. 81–98)
  16. ^ a b 「II 三島由紀夫の祖先を彩る武家・華族・学者の血脈――倭文重」(越次 1983, pp. 91–97)
  17. ^ 「エピローグ」(生涯 1998, pp. 336–337)
  18. ^ 「第八章」(年表 1990, pp. 229–245)

参考文献

[編集]
  • 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集30巻 評論5』新潮社、2003年5月。ISBN 978-4106425707 
  • 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集34巻 評論9』新潮社、2003年9月。ISBN 978-4106425745 
  • 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集38巻 書簡』新潮社、2004年3月。ISBN 978-4106425783 
  • 秋山駿; 江藤淳ほか『三島由紀夫――群像日本の作家18』小学館、1990年9月。ISBN 978-4095670188 
  • 佐藤秀明; 井上隆史; 山中剛史 編『決定版 三島由紀夫全集42巻 年譜・書誌』新潮社、2005年8月。ISBN 978-4106425820 
  • 田中美代子; 佐藤秀明; 井上隆史 編『決定版 三島由紀夫全集補巻 補遺・索引』新潮社、2005年12月。ISBN 978-4106425837 
  • 安藤武 編『三島由紀夫「日録」』未知谷、1996年4月。NCID BN14429897 
  • 安藤武『三島由紀夫の生涯』夏目書房、1998年9月。ISBN 978-4931391390 
  • 磯田光一 編『新潮日本文学アルバム20 三島由紀夫』新潮社、1983年12月。ISBN 978-4106206207 
  • 井上隆史; 佐藤秀明; 松本徹 編『三島由紀夫事典』勉誠出版、2000年11月。ISBN 978-4585060185 
  • 猪瀬直樹『ペルソナ――三島由紀夫伝』文藝春秋社文春文庫〉、1999年11月。ISBN 978-4167431099  - ハードカバー版は1995年11月 NCID BN13365755
  • 岩下尚史『見出された恋 「金閣寺」への船出』雄山閣、2008年4月。ISBN 978-4639020240  - 文春文庫で再刊、2014年8月 ISBN 978-4167901639
  • 岩下尚史『ヒタメン――三島由紀夫が女に逢う時…』文藝春秋社〈文春文庫〉、2016年11月。ISBN 978-4167907358  - ハードカバー版(雄山閣)は2011年12月 ISBN 978-4639021971
  • 越次倶子『三島由紀夫 文学の軌跡』広論社、1983年11月。NCID BN00378721 
  • 川島勝『三島由紀夫』文藝春秋、1996年2月。ISBN 978-4163512808  - 著者は講談社での三島担当編集者。
  • 徳岡孝夫『五衰の人――三島由紀夫私記』文藝春秋社〈文春文庫〉、1999年11月。ISBN 978-4167449032  - 文春学藝ライブラリーで再刊、2015年10月。ハードカバー版は1996年11月 ISBN 978-4163522302
  • 平岡梓『伜・三島由紀夫』文藝春秋社〈文春文庫〉、1996年11月。ISBN 978-4167162047  - ハードカバー版(文藝春秋)は1972年5月 NCID BN04224118
  • 平岡梓『伜・三島由紀夫 (没後)』文藝春秋社、1974年6月。NCID BN03950861 
  • 松本徹『三島由紀夫――年表作家読本』河出書房新社、1990年4月。ISBN 978-4309700526 
  • 村松剛『三島由紀夫の世界』新潮社、1990年9月。ISBN 978-4103214021  - 新潮文庫、1996年10月 ISBN 978-4101497112
  • 松本徹; 佐藤秀明; 井上隆史 ほか 編『三島由紀夫と編集』鼎書房〈三島由紀夫研究11〉、2011年9月。ISBN 978-4907846855 
  • ジョン・ネイスン 著、野口武彦 訳『新版・三島由紀夫──ある評伝』(改訂)新潮社、2000年8月。ISBN 978-4864100281  - 絶版となった初版は1976年6月 NCID BN05986010
    • 英書の原題は、"Mishima: A Biography"(1974年)
  • 「とらのもん」第65号・「三島由紀夫と馬込」栗原 雅直

関連項目

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