庄内戊辰戦争春の陣
表示
庄内戊辰戦争春の陣 | |
---|---|
戦争:秋田戦争 | |
年月日:慶応4年閏4月4日(1868年5月25日) | |
場所:山形県村山地方 | |
結果:旧幕府軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
新政府軍 山形藩など |
旧幕府軍 庄内藩など |
指導者・指揮官 | |
水野三郎右衛門(山形藩中老) | 酒井了恒(庄内軍二番大隊隊長) |
戦力 | |
500名 (庄内) | |
損害 | |
戦死者7名,負傷者5人 | 戦死者名、負傷者名 |
庄内戊辰戦争春の陣(しょうないぼしんせんそうはるのじん)は、戊辰戦争時、庄内藩征討を命じられた山形藩、久保田藩らが、庄内藩と交戦した戦闘のことである。秋田戦争の端緒になった。
経緯
[編集]→詳細は「柴橋事件」を参照
→詳細は「清川口の戦い」を参照
慶応4年(1868年)4月26日に、水野三郎右衛門以下山形隊二番手が天童に至り、28日より寺津、達磨寺村、長崎村落合に布陣した。新政府軍の庄内侵攻計画が閏4月3日から5日に延期されたことで、3日夜半左沢(大江町)を発した庄内側民兵隊が最上川を下り、4日払暁落合を急襲した[1]。この奇襲で山形軍は隊長大久保伝平、司令士の赤星守人以下7名が戦死・5名が負傷、援軍もなく山形城下に潰走した。
庄内軍はその後、寒河江から天童に侵攻した庄内軍と合流して、天童城下の総攻撃を始めた。
→詳細は「天童の戦い」を参照
その後、戦場は左沢、本道寺方面に移動する。
→詳細は「入間森畑の戦い」を参照
また、久保田藩は本荘藩、矢島藩、津軽藩と共同し由利地方に兵を集結し、庄内藩を攻めた。
→詳細は「秋田口の戦い」を参照
脚注
[編集]- ^ この時山形藩は庄内藩と相互不可侵条約の交渉中だったという