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建昌路 (四川)

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建昌路(けんしょうろ)は、中国にかつて存在したモンゴル帝国および大元ウルスの時代に現在の四川省西昌市一帯に設置された。

モンゴル帝国時代にはこの一帯はガインドゥと呼ばれており、ラシードゥッディーンの『集史』ではکند/kind[1]マルコ・ポーロの『東方見聞録』ではGainduと表記されている[2]。漢文史料ではこの一帯の住民を「建都蛮(ガインドゥの蛮)」と呼称し、しばしば大元ウルスに叛乱を起こしたことを伝えている。

歴史

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唐代建昌府を前身とする。唐代以後は大理国の勢力下にあったが、土着の豪族の力が強く大理の統制はほとんど及んでいなかったとされる。13世紀半ば、モンゴル帝国第4代皇帝モンケの弟のクビライを総司令とする雲南・大理遠征が始まると、建昌の酋長の一人建蒂はモンゴル軍に降り、その婿の阿宗は建昌の守備を任せられた。

1272年(至元9年)正月には「建都蛮(ガインドゥの蛮)」が叛乱を起こし、西平王アウルクチ南平王トゥクルク四川行省イェスデルら率いる討伐軍が派遣された[3]。この叛乱ではタンジル[4]スゲ[5]バイダル[6]ヤガン・テギン[7]劉恩ら武将の活躍によって平定された[8]

1275年(至元12年)に入って初めてこの地方に建昌路が設置され、徳昌路会川路柏興府などとともに羅羅斯宣慰司の管轄下に置かれた[9]1284年(至元21年)にはかつてモンケ時代に投降した建蒂の娘の沙智が駅站(ジャムチ)の整備に功績を挙げたため、建昌路の総管に任じられている[10]

1382年(洪武15年)、により建昌路は建昌府と改められた。1392年(洪武25年)、建昌府は廃止された。

マルコ・ポーロによる記録

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クビライの治世に大元ウルスを訪れたとされるマルコ・ポーロはチベット地方からカラジャン地方(大理一帯)の間に位置する「ガインドゥ地方」について『東方見聞録』の中で言及している。

ガインドゥは西方に位置する地方である。……ガインドゥはかつて独立の王を戴いていたが、カーンに帰属してより後はカーンの派遣する総督の治下に置かれている。住民は偶像教徒でカーンに臣属する。この地方には都市・集落が多い。首府もやはりガインドゥといい、境域内の辺界に位置している。また一大鹹湖があって多量の真珠を産する。…… — マルコ・ポーロ、『東方見聞録』[11]

また、マルコ・ポーロはガインドゥでは男が自らの妻・娘・姉妹が外国人と関係を持つことを容認する風習があること、ガインドゥで豊富に産出する塩を固めたものを貨幣がわりに利用していることなどを伝えている[12]

管轄州県

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建昌路には2県(内1県が路の直轄)、9州が設置されていた。

1県

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8州

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脚注

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  1. ^ 宮2018,928/951頁
  2. ^ 愛宕1970,304頁
  3. ^ 『元史』巻7世祖本紀4,「[至元九年春正月]丁丑、勅皇子西平王奥魯赤・阿魯帖木児・禿哥及南平王禿魯所部与四川行省也速帯児部下、並忙古帯等十八族・欲速公弄等土番軍、同征建都
  4. ^ 『元史』巻133列伝20旦只児伝,「旦只児、蒙古答答児帯人。……九年、従征建都蛮。」
  5. ^ 『元史』巻131列伝18速哥伝,「速哥、蒙古人。……九年、建都蛮叛、詔諸王奥魯赤及也速帯児討之。速哥将千人為先鋒、破黎州火尾寨、攻連雲関、克之。軍至建都、戦於東山、斬其酋布庫。復与元帥八児禿迎合剌軍於不魯思河、所過城邑皆下」
  6. ^ 『元史』巻135列伝22塔海帖木児伝,「塔海帖木児、答答児帯人。……拝答児既長、始以父官従行省也速帯児征建都、死軍中」
  7. ^ 『元史』巻133列伝20也罕的斤伝,「……先是、既破江頭城、遣黒的児・楊林等諭緬使降、不報、而諸叛蛮拠建都太公城以拒大軍、復遣僧諭以禍福、反為所害、遂督其軍水陸並進、撃破之、建都・金歯等十二城皆降、命都元帥合帯・万戸不都蛮等以兵五千戍之」
  8. ^ 『元史』巻166列伝53劉恩伝,「劉恩、字仁甫、洺州洺水人……[至元]九年、従皇子西平王・行省也速帯児征建都、恩将游兵為先鋒。師次其地、一日三戦皆捷。建都兵夜来犯囲、恩御之、死者千餘人。時師久駐、食且尽、恩画策招諭沿江諸蛮、得糧三万石・牛羊二万頭、士気益振。建都因山為城、山有七嶺、恩奪其五,断其汲道。建都窮蹙、乃降」
  9. ^ 『元史』巻61志13地理志4,「建昌路、下。本古越巂地、唐初設中都督府、治越巂。至徳中、没於吐蕃。貞元中復之。懿宗時、蒙詔立城曰建昌府、以烏・白二蛮実之。其後諸酋争強、不能相下、分地為四、推段興為長。其裔浸強、遂併諸酋、自為府主、大理不能制。伝至阿宗、娶落蘭部建蒂女沙智。元憲宗朝、建蒂内附、以其婿阿宗守建昌。至元十二年、析其地置総管府五・州二十三、建昌其一路也、設羅羅宣慰司以総之。本路領県一・州九。州領一県。本路立軍民屯田」
  10. ^ 『元史』巻13世祖本紀10,「[至元二十一年八月]甲戌、搠完上言『建都女子沙智治道立站有功、已授虎符、管領其父元収附民為万戸。今改建昌路総管、仍佩虎符』。従之」
  11. ^ 訳文は愛宕1970,300頁より引用
  12. ^ 愛宕1970,300-304頁
  13. ^ 『元史』巻61志13地理志4,「県一:中県。県治在住頭回甸、蓋越巂之東境也。所居烏蛮自別為沙麻部、以酋長所立処為中州。至元十年内附。十四年、仍為中州。二十二年、降為県。隷建昌路」
  14. ^ 『元史』巻61志13地理志4,「州九:建安州、下。即総府所治。建蒂既平、分建昌府為万戸二、又置千戸二。至元十五年、割建郷城十四村及建蒂四村立宝安州。十七年、改本千戸為建安州。二十六年、革宝安州、以其郷村来属」
  15. ^ 『元史』巻61志13地理志4,「永寧州、下。在建昌之東郭。唐時南詔立建昌郡、領建安・永寧二州。元至元九年、西平王平建蒂。十六年、分建昌為二州、在城曰建安、東郭曰永寧、倶隷建昌路」
  16. ^ 『元史』巻61志13地理志4,「瀘州、下。州在路西、昔名沙城𧸘、即諸葛武侯擒孟獲之地。有瀘水、深広而多瘴、鮮有行者、冬夏常熱、其源可燅鶏豚。至段氏時、於熱水甸立城。名洟籠、隷建昌。憲宗時、建蒂内附、復叛、至元九年平之。十五年、改洟籠為瀘州」
  17. ^ 『元史』巻61志13地理志4,「礼州、下。州在路西北、瀘沽水東、所治曰籠麼城。南詔末、諸蛮相侵奪、至段氏興、併有其地。裔孫阿宗内附、復叛、至元九年平之、設千戸。十五年、改為礼州。領一県:瀘沽。県在州北。昔羅落蛮所居、至蒙氏覇諸部、以烏蛮酋守此城、後漸盛、自号曰落蘭部、或称羅落。其裔蒲徳遣其侄建蒂内附。建蒂継叛、殺蒲徳、自為酋長、併有諸部。至元九年平之、設千戸。十三年升万戸、十五年改県」
  18. ^ 『元史』巻61志13地理志4,「里州、下。唐隷巂州都督。蒙詔時落蘭部小酋阿都之裔居此、因名阿都部。伝至納空、随建蒂内附。中統三年叛。至元十年、其子耶吻効順、隷烏蒙。十八年、設千戸。二十二年、同烏蛮叛、奔羅羅斯。二十三年、升軍民総管府。二十六年、府罷為州、隷建昌路」
  19. ^ 『元史』巻61志13地理志4,「闊州、下。州治密納甸。古無城邑、烏蒙所居。昔仲由蒙之裔孫名科居此、因以名為部号、後訛為闊。至三十七世孫僰羅内附。至元九年、設千戸。二十六年、改為州」
  20. ^ 『元史』巻61志13地理志4,「邛部州、下。州在路東北、大渡河之南、越巂之東北。君長十数、筰都最大。唐立邛部県、後没於蛮。至宋歳貢名馬土物、封其酋為邛都王。今其地夷称為邛部川、治烏弄城、昔麼・些蛮居之、後仲由蒙之裔奪其地。元憲宗時内附。中統五年、立邛部川安撫招討使、隷成都元帥府。至元十年、割属羅羅斯宣慰司。二十一年、改為州」
  21. ^ 『元史』巻61志13地理志4,「隆州、下。州在路之西南、與漢邛都県接境、唐会川県之西北。蒙氏改会川為会同邏、立五𧸘、本州為辺府𧸘。其後𧸘主楊大蘭於𧸘北塏上立城、分派而居、名曰大隆城、即今州治也。元至元十三年内附。十四年、設千戸。十七年、改隆州」
  22. ^ 『元史』巻61志13地理志4,「姜州、下。姜者蛮名也。烏蛮仲牟由之裔阿壇絳始居閟畔部、其孫阿羅仕大理国主高泰、是時会川有城曰龍納、羅落蛮世居焉。阿羅挾高氏之勢、攻抜之、遂以祖名曰絳部。憲宗時、随閟畔内附、因隷焉。至元八年、為落蘭部酋建蒂所破。九年平之、遂隷会川、後属建昌。十五年、改為姜州。二十七年、復属閟畔部、後又属建昌」

参考文献

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  • 愛宕松男『東方見聞録 1』平凡社、1970年
  • 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年