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木村庄之助 (37代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
式守伊之助 (39代)から転送)
37代木村庄之助
37th Kimura Shonosuke
39代式守伊之助時代
基礎情報
行司名 木村三治郎 → 5代木村玉治郎 → 10代木村庄三郎 → 39代式守伊之助 → 37代木村庄之助
本名 はたけやま さぶろう
   畠山 三郎
生年月日 (1950-03-16) 1950年3月16日
没年月日 (2022-07-22) 2022年7月22日(72歳没)
出身 日本の旗 日本青森県上北郡六戸町
所属部屋 高島部屋熊ヶ谷部屋大島部屋友綱部屋
データ
現在の階級 引退
最高位 立行司(木村庄之助)
初土俵 1965年7月場所
幕内格 2001年1月場所
三役格 2007年9月場所
立行司 2012年11月場所
引退 2015年3月場所
備考
2022年7月26日現在

37代 木村 庄之助(さんじゅうしちだい きむら しょうのすけ、本名:畠山 三郎(はたけやま さぶろう)、1950年3月16日 - 2022年7月22日)は、大相撲立行司の1人だった。高島部屋熊ヶ谷部屋大島部屋を経て引退時は友綱部屋所属。血液型A型

人物

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青森県上北郡六戸町出身。4代木村玉治郎(後の27代木村庄之助)に入門。高島部屋に預けられる。

1965年7月場所に、木村玉三郎として初土俵を踏んだ。1977年1月場所に、初名木村三治郎より5代木村玉治郎襲名。1989年1月に十両格に昇格、2001年1月に幕内格に昇格。2003年1月場所に10代木村庄三郎襲名。2007年9月に三役格に昇格。

庄三郎時代の2012年1月場所4日目、大関把瑠都送り倒され小結若荒雄とぶつかり土俵から転落して頭部を強打して脳震盪の疑いで救急車で病院へ搬送されて精密検査を受けたが[1]、翌日には土俵に復帰した[2]

2012年11月場所より、立行司39代式守伊之助を襲名[3]。庄三郎時代に後援会より贈られた軍配を時折使用している。なお、庄之助の譲り団扇は東京場所の横綱土俵入りのみ使用し、取組時は、十枚目格昇進時に家族から贈られた軍配を使用していた。そのため、庄之助のみ持つことを許されている譲り団扇を用いた取組はない(停年後、行司装束と軍配団扇を故郷の自治体へ寄贈した際、取組で用いていた漆塗りの軍配がおよそ600グラムに対し、庄之助の譲り団扇が相当重い〈軍配だけで1kg以上する〉ため、横綱土俵入りにしか使用しなかった、と説明した)。

2013年5月場所後、36代木村庄之助停年を迎えたが、番付編成会議において翌7月場所は木村庄之助を空位とし、2006年3月場所以来7年ぶりに立行司は伊之助1人となった。

2013年11月場所より、2場所空位であった木村庄之助(37代)を襲名[4]

立行司40代式守伊之助や、三役格6代木村玉治郎、幕内格木村寿之介は弟弟子にあたる。

2015年3月場所9日目に停年(定年)の満65歳を迎え、以前なら65歳になる前日の中日(8日目)が最後の捌きとなるが、規定が改正となり、場所中に停年を迎えても千秋楽まで務めることとなり、千秋楽をもって停年により引退となった[5]。なお最後の捌きは、横綱同士の白鵬日馬富士戦。

また、彼の停年退職後、次期庄之助になるはずだった40代伊之助が、軍配差し違えなどの土俵上でのミスや不祥事などにより結局庄之助になれないまま辞職、さらに41代伊之助も軍配差し違えなどの土俵上でのミスが多く庄之助襲名が2024年1月場所に決まるまで、約9年に渡り庄之助が襲名されないままとなっていた(事実上の空位)。

2022年7月22日、慢性間質性肺炎のため、自宅で死去[6]。72歳没。

エピソード

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  • 2014年5月場所12日目、結びの関脇豪栄道-横綱鶴竜戦で豪栄道が鶴竜を東土俵に破り、庄之助も豪栄道に軍配を挙げたが、東の控えで勝ち残りの横綱白鵬が右手を挙げて物言いをつけた[7]。協議の結果、豪栄道が鶴竜の大銀杏を引っ張ったとして鶴竜の反則勝ちとなった。
  • 停年退職の会見の際、21年前にバイクにはねられ、食道がん、脳震盪と3度も死を覚悟。「よくここまで体がもった」と感慨深げな一方で「日本人横綱を裁けなかったのが唯一の心残り」とも話した[8]
  • 2017年12月31日放送、AbemaTVの「朝青龍を押し出したら1000万円」では行司を務めた。
  • 自身の死去の際に6代大島は「自分の父と年齢が近かったから、お父さんみたいな存在でした。よく一緒に酒を飲んだりした。コロナ禍になってからは会っていません。それまでは地方場所ごとに来てくれたのにな」と思い出を語った。
  • 36代木村庄之助は、2012年に土俵から落ちて頭を打ち付けた時のことをよく覚えており、「あれはびっくりしました。たいしたもんですよ、次の日出てきましたから。素朴な親方でした。寡黙で無駄口をしない。割場の仕事、取り組み編成を任せると安心でした」と語った。36代木村庄之助も、その僅か4ヵ月後の11月23日に逝去した[9]

履歴

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部屋移籍履歴

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出演

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配信ドラマ

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脚注

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  1. ^ 行司の木村庄三郎、力士と接触し転落 病院で検査 日本経済新聞 2012年1月11日閲覧
  2. ^ 救急搬送の行事・木村庄三郎 休まず出場「大丈夫」 スポーツニッポン 2012年1月13日閲覧
  3. ^ 理事会で行司、床山の昇進決定 日刊スポーツ、2012年9月27日
  4. ^ 三保ケ関から阿覧ら6人が春日野部屋へ nikkansports.com 2013年10月3日
  5. ^ 死を見た木村庄之助 千秋楽が“千秋楽” nikkansports.com 2015年3月17日
  6. ^ 37代庄之助の畠山三郎さんが死去 72歳、自宅で 15年春場所を最後に退職」『日刊スポーツ』2022年7月26日。2022年7月26日閲覧。
  7. ^ 物言いについては、5人の勝負審判以外で土俵周りに控えている力士も物言いをつけることは可能となっている。その際は、必ず5人の勝負審判とその取組を裁いた行司が協議を行う(物言いをつけた力士は協議に参加することはできない)。
  8. ^ 37代木村庄之助も定年「日本人横綱を裁きたかった」nikkansports.com 2015年3月20日
  9. ^ 第37代木村庄之助、畠山三郎さんの死悼み「お父さんみたいな存在」19年間ともにした大島親方 日刊スポーツ 2022年7月26日16時8分 (2022年7月27日閲覧)