木村庄之助 (23代)
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基礎情報 | ||||
行司名 | 木村藤吾 → 2代木村正直 → 23代木村庄之助 | |||
本名 |
うちやま とうさん 内山 等三 | |||
愛称 | 正直庄之助 | |||
生年月日 | 1897年12月18日 | |||
没年月日 | 1994年9月19日(96歳没) | |||
出身 | 日本・石川県 | |||
所属部屋 | 朝日山部屋 | |||
データ | ||||
現在の階級 | 引退 | |||
最高位 | 立行司(木村庄之助) | |||
初土俵 | 1909年1月 | |||
幕内格 | 1924年5月 | |||
三役格 | 1938年1月 | |||
立行司 | 1960年1月 | |||
引退 | 1962年11月 | |||
備考 | ||||
23代 木村 庄之助(にじゅうさんだい きむら しょうのすけ、1897年12月18日 - 1994年9月19日)は、大相撲の立行司。本名:内山等三。石川県出身。朝日山部屋所属。木村正直(2代)を47年間と長期にわたって名乗っていたため、正直庄之助(まさなおしょうのすけ)とも呼ばれている。
経歴
[編集]行司が刀を差せることに魅力を感じて小学校時代の1908年入門。初土俵は1909年(明治42年) (大坂相撲) 。初名は木村藤吾。師匠は大坂相撲出身で、初代木村正直(のち8代木村玉之助)でもある木村越後。木村越後は20代木村庄之助(松翁)と匹敵する名行司で、22代木村庄之助は「東の名人松翁、西の達人越後」と評している。朝日山部屋所属で、1913年1月越後の後を継ぎ、正直を襲名。東西合併後も2代木村正直として三役格(のち副立行司)に昇格。
正直時代の1949年1月20日、大日本相撲協會が当時の文部省、労働省の了解を得て「行司学校」を開設、主任教授に任命された。
1960年から協会が停年制度を導入したことにより、22代庄之助、19代式守伊之助の両立行司が引退。これに伴い23代庄之助を襲名した。伊之助を経ずにいきなり庄之助を襲名しており、これは代々伊之助から庄之助を継承(17代庄之助が最初)するようになってからは2人目(前例は1922年1月場所、初代木村朝之助が18代庄之助を襲名)で、その後見られない珍しい例である。在位は3年であったが、停年後は長寿を保った(96歳で逝去)。
1994年9月19日、肺炎のため東京都田無市の病院で死去、96歳没。
履歴
[編集]- 1909年1月 初土俵、木村藤吾。
- 1913年1月 2代木村正直襲名。
- 1924年5月 幕内格に昇進。
- 1938年1月 三役格に昇進。
- 1947年6月 草履免許。
- 1951年9月 副立行司に昇格。
- 1960年1月 立行司に昇格。23代木村庄之助を襲名。
- 1962年11月 停年退職。
その他
[編集]- 若々しい風貌、キビキビした土俵態度、足裁きの名人で、明敏な人物であった。
- 正直時代の1949年1月20日、大日本相撲協會が当時の文部省、労働省の了解を得て「行司学校」を開設、主任教授に任命された。
- 栃錦・初代若乃花の両横綱最終戦となる全勝対決を裁くなど、「栃若時代」の代表的な行司である。本人も定年時思い出の一番に挙げている。
- 行司部屋の独立の際は茶屋を買い取るなど尽力した。
- 弟子に24代式守伊之助(3代木村正直)がいる。また足裁きは、29代木村庄之助がその流れを受け継いでいる。
脚注
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