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徳寿宮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
徳寿宮
地図
徳寿宮
各種表記
ハングル 덕수궁
漢字 德壽宮
発音 トクスグン
日本語読み: とくじゅきゅう
ローマ字 Deoksugung
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徳寿宮(とくじゅきゅう、: 덕수궁、トクスグン)は大韓民国ソウル特別市にある李氏朝鮮の宮殿。

概要

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徳寿宮は本来、第9代国王・成宗の実兄の月山大君の邸宅として造営された[1]。しかしその後、豊臣秀吉による文禄の役で義州に避難していた宣祖は、1593年にこの邸宅を、戦火で荒廃した景福宮のかわりの臨時の王宮とした。そのときは貞陵洞行宮と呼ばれた。さらに光海君が居住。そのときには「慶運宮(キョンウングン)」[2]と命名された。

しかし、第15代国王の光海君(1575年-1641年)が昌徳宮(チャンドクグン)に移る[3]と顧みられることなく廃墟となった[4]

高宗1897年慶運宮を改修して璿源殿、寝殿の成寧殿、普門閣、思成堂[3][4]を造らせて王宮の佇まいを整えている。1896年閔妃暗殺事件が起きて一時、ロシア公館に避難したのちは慶運宮に居住し、即祚堂の扁額を太極殿と改めさせた(1897年旧暦10月[3])。内外の貴賓に会う場所を設けようと、咸寧殿(寝殿)を改築[3][5]光武4年(1900年)に慶運宮を取り巻く宮壁を築く[6][要ページ番号]。1907年の高宗退位までの間、慶運宮は日韓保護条約の締結など大韓帝国の歴史の舞台となった[7]

高宗の次の皇帝純宗(在位:1907年-1910年)は先王の長寿を祈願して「慶運宮」を「徳寿宮」と改称した[8]。1909年には西洋風の宮殿である石造殿が建築された[9][10]。退位した後も高宗は徳寿宮に住み続けており、徳寿宮は韓国併合後も李王家の財産として扱われた。高宗が李太王となって以降は「徳寿宮李太王(とくじゅきゅう りたいおう)」の称号を帯びた。高宗の没後に博物館等が設置された[11]

歴史

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朝鮮初期

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現在の徳寿宮の場所には本来、1469年(睿宗元年)に南怡の謀叛事件に関わったとされるチョ・ヨンダル(趙穎達 조영달)の家があった。王室はチョが逆謀に連座したとして家屋敷を没収すると、1年後の1470年に李琰[注釈 1]の妻ソン氏に下賜した[12]。すると翌年、ソン氏は家屋敷を王家に捧げ、王室は延慶宮(クァンギョングン)を建てた[13]

成宗は明けて1472年(成宗3年)12月、生母の仁粋大妃を王大后として住まうように自らの宮殿へ招く。延慶宮の後ろに20歳で没した父の李暲を祀る懿廟(義廟)を建てると、延慶宮は祭祀を司る実兄で長男の月山大君に贈った[14][15]。1475年(成宗6年)には「景福宮」に延恩殿を設けて位牌を移すことになり、延慶宮は月山大君の屋敷だけとなった[16]

行宮の時期

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寝所に使った建物

1592年に文禄・慶長の役が勃発し、宣祖は義州まで移ったのちに戻って翌年10月4日に還宮する。漢城府のすべての宮殿が失われ、宣祖は100年ほど前に月山大君の住まいだった延慶宮(연경궁[15]を修理し臨時の御所とすると、これを行宮とし[17]貞陵洞(ラテン文字転写 Jeongleung-dong)にあるため貞陵洞行宮とも呼ばれた[注釈 2]。周辺の建物群[注釈 3]の用途を決め、子女には一時的にお手許金(内帑 ないど)[注釈 4]を分け与えた。これを先例として後に王家所領の宮房田を配っており、王室の内帑金(내탕을 naetang-eu)を準備し管理する役所が設置されたものとみなされる。その明禮宮(명례궁은)は徳寿宮の北、静観軒の西側にあった[17]

行宮が狭いため、宣祖は周辺の民家を買い入れて宮域に含めて昌徳宮を拡幅するよう指示する[17]詩人(詞人)の官職を降格した[22]。昌徳宮の完工を見届けないまま、宣祖は1608年に徳寿宮で没した[23]

慶運宮の時代

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法宮に指定

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中和殿(중화전 및 중화문)完成以前の慶運宮の様子。仁化門と大韓門、中門として使われた金礼文(돈례문)が見える
火災以前の慶運宮(1904年)

1904年の火災、徳寿宮の時代

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大韓帝国末期の徳寿宮平面図(小田省吾『徳寿宮寺』、1938年より)
慶運宮(경운궁)の火災現場。右側に宮殿の中門だったチョウォン(朝元)門[24]が見える

遺構

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1910年代の大漢門
大漢門
中和殿
  • 大漢門 - 旧名「大安門」。現在の門は1907年完成。20世紀以降は正門として扱われてきた[25][9]王宮守門将交代式(衛兵交代式)が見られる。
  • 仁化門 - 本来の正門。20世紀以降は交通の便が良い大漢門[25]が正門として扱われている。
  • 中和門 - 国宝指定[26]
  • 中和殿 - 国宝指定[27]英国式庭園に面する[9][28]
  • 昔御堂[29][30]
  • 徳弘殿 - 画像を参照。
  • 咸寧殿 - 高宗が元の寝殿を改築して迎賓館に変えた[3][31][5][32]
  • 静観軒 - 咸寧殿の詩碑が1930年代に立っており、写真で伝わる朝: 정간헌의[32]
  • 即祚堂 - 慶運宮別堂とも呼ばれた。1611年に15代国王光海君の母后である仁穆大妃の隠居処となった[8]。この宮殿で1623年に即位し16代国王となった仁祖は、仁穆大妃(先王の母后)とともに昌徳宮に住まいを構えると[1]、この慶運宮は寝殿2つだけを残して改築した[1][33][30]。国家遺産庁の指定する景観遺産である[23]
  • 浚明堂 - 李王職がまとめた書籍に1930年代の図版がある[24]。建築史に残る外構[34]と内部[35]が伝わる[33]
  • 仰俯日 - 日時計である。
純宗の治世

大韓帝国皇帝として純宗がここで即位すると、徳寿宮と改称された[8]

周辺にある遺構

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  • 重明殿 - 日韓保護条約を締結した建物[39]。その後、敷地が分断縮小されたため、現在は徳寿宮から離れた場所となった。

衛兵交代式

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大漢門では衛兵交代式を見学できる。事前予約は不要である。

ギャラリー

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脚注

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注釈

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太平路(태평로를)の拡幅工事で建物が撤去された
  1. ^ 李琰は言い換えるなら成宗(李氏朝鮮)の末っ子の息子。
  2. ^ 仮住まいの行宮とソゴン洞(ko:소공동)付近は漢陽を占領した豊臣秀吉方の駐屯地であった経緯から、王が長く居住するには不適切とされ、最初から他の宮殿へ移ることを念頭に置いた[18]
  3. ^ 宣祖の摂政で13代明宗の王后仁順(沈氏)の屋敷を宗廟に当てて、東宮は西人党領袖の屋敷に定めた。
  4. ^ (内帑 ないど)내탕白川静 編『普及版 字通』(平凡社[19])の解説によると「内帑」(ナイド)とはお手許金[20]のこと。

出典

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  1. ^ a b c 鄭 1982, pp. 39–42
  2. ^ 小田 1938, pp. 23-, 第3節 慶運宮時代(前期)
  3. ^ a b c d e 鄭 1997, pp. 44–48, 『月刊韓国文化』
  4. ^ a b 小田 1938, pp. 37-, 第4節 慶運宮時代(後期)
  5. ^ a b c 小田 1938, pp. 付録, 図版「4 咸寧殿 光明門(咸寧殿前門)」
  6. ^ 『建築』〈韓国美術全集〉 1975
  7. ^ 小田 1938, pp. 71-, 第7節 徳寿宮時代
  8. ^ a b c 美谷島 1986, コマ番号0001.jp2
  9. ^ a b c d 小田 1938, pp. 65-, 第6節 中和殿・大漢門及び石造殿
  10. ^ a b 小田 1938, pp. 付録, 図版「6 石造殿 石造殿内部」
  11. ^ 長与 1924, pp. 82–83, コマ番号 0044.jp2
  12. ^ 成宗大王実録』第2巻「成宗1年1月30日」基油4件目の記事。
  13. ^ 『成宗大王実録』第11巻「成宗2年7月24日乙未」第2の記事。
  14. ^ 『成宗大王実録』第25巻「成宗3年12月2日」갑자 3番目の記事。
  15. ^ a b 小田 1938, pp. 8-, 第1節 月山大君私邸時代
  16. ^ 『成宗大王実録』第60巻「成宗6年10月28日」갑진4番目の記事。
  17. ^ a b c 小田 1938, pp. 12-, 第2節 時御所時代
  18. ^ 李廷龜『월사집』(月沙集)1636年
  19. ^ 字通, 普及版. “普及版 字通収録キーワード一覧”. コトバンク. 2024年11月28日閲覧。
  20. ^ 内帑(ナイド)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 普及版 字通. 2024年11月28日閲覧。
  21. ^ ウィキソース出典  (中国語) 朝鮮王朝實錄/宣祖實錄, ウィキソースより閲覧。 
  22. ^ 『宣祖実録』第158巻「宣祖36年1月13日」3番目の記事[21]
  23. ^ a b 문화재청 国家遺産庁 (2011年2月14日). “2-h-5 즉조당 [即祚堂]” (朝鮮語). [景観: 2754]. Guggayusancheong Gogaegjiwonsenteo [国家遺産庁顧客支援センター]. 2022年12月10日閲覧。 “제목: [궁궐의 현판과 주련-덕수궁_중화전 권역 2] [宮殿の玄板と主連—徳寿宮_中華殿_圏域_2]
    • 〒35208 大田庁舎、国家遺産庁顧客支援センター
    • (c) 1999. KOREA HERITAGE SERVICE”
  24. ^ a b 小田 1938, pp. 付録, 図版「8 大安門朝元門及光明門・浚明堂・九如堂」
  25. ^ a b 小田 1938, pp. 付録, 図版「1 大漢門」
  26. ^ 申、孔 1985, p. 78, 「89 徳寿宮 中和門(宝物819号)」
  27. ^ 申、孔 1985, p. 77, 「88 徳寿宮 中和殿(宝物819号」)
  28. ^ 申、孔 1985, p. 76, 「87 徳寿宮 中和殿 架構」
  29. ^ 『建築』〈韓国美術全集〉 1975, 「105 徳寿宮昔御堂」
  30. ^ a b 小田 1938, pp. 付録, 図版「3 昔御堂 卽阼堂」
  31. ^ 申、孔 1985, p. 79, 「咸寧殿(宝物820号)」
  32. ^ a b 小田 1938, pp. 付録, 図版「5 咸寧殿詩碑 静觀軒」
  33. ^ a b 『建築』〈韓国美術全集〉 1975, 「106 徳寿宮浚明堂と即祚堂」
  34. ^ 申、孔 1985, p. 80, 「浚明堂」
  35. ^ 申、孔 1985, p. 80, 「浚明堂(内部)」
  36. ^ a b 大鳥 1997, pp. 77–87
  37. ^ 東アジアの都市における歴史遺産の保護と破壊—古写真と旅行記が語る近代”. www.univ.gakushuin.ac.jp. 古写真からアジアを見る. 学習院大学国際センター(元国際研究教育機構). 2022年1月17日閲覧。
  38. ^ INAX REPORT” (PDF). LIXIL ビジネス情報. LIXIL (2011年7月). 2024年11月28日閲覧。
  39. ^ 小田 1938, pp. 付録, 図版「7 重明殿(潄玉軒)環碧亭懸額」

参考文献

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本文の典拠。主な執筆者、編者の順。

  • 大鳥居総夫「韓国石造美術の旅(9)下」『史迹と美術』第67巻2(672)、史迹美術同攷会、1997年2月、77-87頁、doi:10.11501/6067559NDLJP:6067559 
  • 小田省吾『徳寿宮史』李王職、1938年。NDLJP:1905839 
  • 第1節 月山大君私邸時代 
  • 第2節 時御所時代 
  • 第3節 慶運宮時代(前期)
  • 第4節 慶運宮時代(後期)
  • 第5節 慶運宮甲辰年次の大火と復旧
  • 第6節 中和殿・大漢門及び石造殿
  • 第7節 徳寿宮時代
  • 図版目次
  1. 大漢門
  2. 中和殿内部 中和殿
  3. 昔御堂 卽阼堂
  4. 咸寧殿 光明門(咸寧殿前門)
  5. 咸寧殿詩碑 静観軒
  6. 石造殿 石造殿内部
  7. 重明殿(潄玉軒)環碧亭懸額
  8. 大安門朝元門及光明門・浚明堂・九如堂
  • 金素雲 訳『建築』 14巻、金正基 責任編集・執筆(限定版)、同和出版公社〈韓国美術全集 日本語版〉、1974-1975。国立国会図書館書誌ID:000001285171 
  • 申栄勲 編著 著、孔泰瑢 訳 11巻、竹書房〈国宝 : 韓国7000年美術大系〉、1985年6月、76-80頁。doi:10.11501/12659570国立国会図書館書誌ID:000001827774。「一般注記:おもに図。宮室建築」 国立国会図書館内限定公開、デジタル化資料送信対象外、遠隔複写可(NDL)
  • 87 徳寿宮 中和殿 架構
  • 88 徳寿宮 中和殿(宝物819号)
  • 89 徳寿宮 中和門(宝物819号)
  • 90 徳寿宮 咸寧殿(宝物820号)
  • 91 徳寿宮 浚明堂
  • 92 徳寿宮 浚明堂(内部)
  • 鄭在鍾(著)、企画室アートプランニング(編)「博物館・美術館・古宮だより:徳寿宮--月山大君家に宣祖が起居し行宮と定めた」『月刊韓国文化』第4巻8(通号35)、ああとしすてむ、1982年8月、39-42頁、doi:10.11501/7952636NDLJP:7952636 
  • 鄭在鑂(著)、企画室アートプランニング(編)「[連載] 東洋の名苑10:徳寿宮の宮苑」『月刊韓国文化』第19巻10(通号215)、ああとしすてむ、1997年10月、NDLJP:7952816 
  • 長与善郎『波』新しき村出版部、大正13年。doi:10.11501/977235NDLJP:977235 
  • 美谷島醇 写真『韓国の庭 : 昌徳宮秘苑を訪ねて 美谷島醇写真集』求竜堂、1986年11月。doi:10.11501/12422980NDLJP:12422980 

関連項目

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関連資料

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発行年順。 李王家博物館の収蔵品

その他の版
  • 『李王家博物館所蔵品写眞帖』(李王職、1932年)NCID BC12116179
  • 『李王家博物館所蔵品写眞帖』(李王職、1933年)NCID BA55708754
  • 『李王家博物館所蔵品写真帖』末松熊彦 編(李王職、1929年)NCID BA38583197
  • 『李王家博物館所蔵品写真帖』(韓國學資料開發院、2003年)NCID BA6244896X
  • 「昌徳宮と武英殿の古陶磁」31-57頁。
  • 「昌徳宮李王家博物館」
  • 「匋雅会趣意書」107-112頁。
  • 「李王家博物館」126頁。
  • 「李王家秘苑」127頁。
  • 東京文化財研究所文化財情報資料部 編『美術研究』第1号(国立文化財機構東京文化財研究所、1932年)doi:10.11501/7964103国立国会図書館書誌ID:000000019999-d7964103
    • 「7、(1) 陳鑑如筆『李齊賢肖像』京城 李王家博物館蔵』」欧文別題「Plates VII-VIII. "Portrait of Ri Seiken (李齊賢)" by Chen Chien-ju (陳鑑如)」
    • 「7、(1) 陳鑑如筆 同自賛」欧文別題「Plates VII-VIII. "Portrait of Ri Seiken (李齊賢)" by Chen Chien-ju (陳鑑如)」
    • 「8、陳鑑如筆 肖像部分」欧文別題「Plates VII-VIII. "Portrait of Ri Seiken (李齊賢)" by Chen Chien-ju (陳鑑如)」

その他

  • 2 筆者不詳「山羊図」
  • 5 下「天人図」銅板画
  • 6 下「四神図」銅板画
  • 11 筆者不詳「佛画」
  • 15 左 恭愍王筆「天山大獵図」
  • 17 陳鑑如筆「李齊賢肖像」
  • 18 伝・姜希顏筆「山水二図」
  • 21 李上佐筆「松下步月図」
  • 27 筆者不詳「白鹿図」
  • 28 筆者不詳「魚介図」
  • 29 伝・李澄筆「雪峰江閣図」
  • 30 左 李霆筆「墨竹図」
  • 34 李成吉筆「武夷九曲図」
  • 35 金明國筆「雪景山水図」
  • 36 左 金明國筆「人物図」
  • 37 伝・尹毅立筆「山水二図」
  • 39 孟永光筆「秋聲図」
  • 41 右 姜世晃筆「米法山水図」
  • 43 卞尙壁筆「噪雀戱猫図」
  • 44 金得臣筆「行樂図」
  • 45 金弘道筆「唐犬図」
  • 46 左 金弘道筆「簫仙図」
  • 48 李寅文筆「江山無盡図」
  • 49 左 筆者不詳「道庵肖像」
  • 「白瓷舟形花瓶」高麗時代
  • 「青磁象嵌爪形水注」高麗時代
  • 「彫三島唐草紋扁壺」李朝初期
  • 「絵刷毛目壺」李朝初期
  • 「絵刷毛目瓶」李朝初期

外部リンク

[編集]

登録日 : / 更新日 : 2024.05.28 朝鮮王朝の燦爛たる政治·経済·文化の花を咲かせた場所 紹介] - ソウル特別市文化観光公式サイト (日本語)

  • 重明殿 - ソウルナビ (日本語)

座標: 北緯37度33分57.00秒 東経126度58分30.00秒 / 北緯37.5658333度 東経126.9750000度 / 37.5658333; 126.9750000