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博恭王妃経子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
徳川経子から転送)
博恭王妃 経子
伏見宮
1906年頃
続柄 徳川慶喜第9女子

全名 経子(つねこ)
身位 王妃
敬称 殿下
出生 1882年9月23日
静岡県
死去 (1939-08-18) 1939年8月18日(56歳没)
日本の旗 日本東京府東京市
埋葬 1939年8月25日
豊島岡墓地
配偶者 伏見宮博恭王
子女 博義王
浅野恭子(恭子女王)
華頂宮博忠王
華頂博信(博信王)
清棲敦子(敦子女王)
知子女王
伏見博英(博英王)
父親 徳川慶喜
母親 新村信
役職 陸海軍将校夫人会総裁
財団法人福田会総裁
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博恭王妃 経子(ひろやすおうひ つねこ、1882年明治15年〉9月23日 - 1939年昭和14年〉8月18日)は、日本皇族伏見宮博恭王。旧名は、徳川 経子(とくがわ つねこ)。身位王妃で、皇室典範における敬称殿下徳川幕府15代将軍・徳川慶喜の9女。母は、側室新村信高松宮妃喜久子伯母にあたる。徳川慶喜の母・吉子女王を通じて、霊元天皇の5世孫でもある。

経歴

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生後まもなく山田友次郎に預けられる。1885年明治18年)10月、徳川邸に戻る。1889年(明治22年)7月、姉・筆子、妹・糸子ら姉妹6人で静岡から東京に移る。同年9月、華族女学校に入学[1]1891年(明治24年)4月、明治天皇の第6皇女子常宮昌子内親王、第7皇女子・周宮房子内親王の遊び相手として、姉・国子、妹・糸子とともに赤坂離宮に招かれる。1897年(明治30年)1月9日、華頂宮博恭王と結婚。1904年(明治37年)1月15日、華頂宮から伏見宮に復籍。

1939年昭和14年)7月下旬、左胸肋膜炎になり、体調が悪化。同年8月18日に薨去。

墓地は東京都文京区豊島岡墓地

栄典

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血縁

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※敦子女王と知子女王は双生児である。

脚注

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  1. ^ 華族女学校年報. 第1-5”. 2020年1月28日閲覧。
  2. ^ 『官報』第4472号、「叙任及辞令」1898年05月30日。
  3. ^ 『官報』号外、「叙任」1906年11月03日。
  4. ^ 『官報』第7578号・付録、「辞令」1908年09月28日。

外部リンク

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