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恩地三保子

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恩地 三保子(おんち みおこ[1][2]1917年大正6年〉2月12日[3] - 1984年昭和59年〉12月27日[3])は、日本児童文学翻訳家

略歴

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画家・恩地孝四郎の長女として東京市麹町区中六番町(現・東京都千代田区四番町)に生まれる[4][5]1938年東京女子大学英文科卒業[4]、同年7月師範学校中学校高等女学校教員免許状(英語)取得[6][注釈 1]

戦後、東京のアメリカ第8軍教育本部勤務や国際基督教大学美術史教授ヒューゴ・ムンスターバーグwikidataの著作執筆の助手等を経て、明星学園高等学校講師[注釈 2]を務めるなどして、1951年頃から英米文学の翻訳を始めた[4][7]。はじめ推理ものや少女ものを訳し、ローラ・インガルス・ワイルダーの作品の訳者として知られる。

堀辰雄堀多恵子夫妻とも交際があった[注釈 3]

翻訳

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モード・ラブレイス

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  • 『ベッシイの高校卒業期』(モード・ラブレイス英語版、秋元書房) 1956年
  • 『ベッシイは高校一年生』(モード・ラブレイス、秋元書房) 1957年
  • 『ベッシイは高校二年生』(モード・ラブレイス、秋元書房) 1957年
  • 『ベッシイは高校三年生』(モード・ラブレイス、秋元書房) 1957年
  • ベッツィーとテイシイ』(モード・ハート・ラブレイス、福音館書店) 1975年、のち復刻

クリスチアナ・ブランド

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  • 『ハイヒールの死』(クリスチアナ・ブランド、早川書房) 1959年、のち文庫
  • 『ゆがんだ光輪』(クリスチアナ・ブランド、早川書房、世界ミステリシリーズ) 1959年
  • 『自宅にて急逝』(クリスチアナ・ブランド、早川書房、世界探偵小説全集) 1959年
  • 『ジェゼベルの死』(クリスチアナ・ブランド、早川書房) 1960年、のち文庫

ローラ・インガルス・ワイルダー

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脚注

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注釈

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  1. ^ 文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験の無試験検定合格者にあたる。
  2. ^ 1956年7月当時。
  3. ^ 堀辰雄が恩地三保子・加藤(堀)多恵子に宛てた書簡は『七つの手紙』(初出時の表題:山村雑記)[8]にまとめられた。
  4. ^ ジュヌヴィエーヴ(同書の訳者まえがきでは「ジュネヴィエーヴ」)の頭文字は本来は"G"であるが、刊行時の表記に拠る。なお、標題紙背表紙に記載の著者名の省略表記は出版社の編集サイドによるものである(6頁の版権表示〈著作権・翻訳権〉には原著者の英語名を正しいスペリングで記載)。

出典

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  1. ^ 上記「大きな森の小さな家」シリーズ(福音館書店)の作者・訳者紹介。
  2. ^ 恩地三保子 訳『空からきたメアリー・ポピンズ』偕成社〈少年少女世界名作選 19〉、1968年9月、223頁。NDLJP:1657148/116 奥付を参照。215頁にある解説者名の振り仮名も同じ。
  3. ^ a b 恩地 三保子」『20世紀日本人名事典』https://kotobank.jp/word/%E6%81%A9%E5%9C%B0%20%E4%B8%89%E4%BF%9D%E5%AD%90コトバンクより2024年5月11日閲覧 
  4. ^ a b c 恩地三保子 訳『ベッシイの高校卒業期』秋元書房、1956年8月、238頁。NDLJP:1694418/123 訳者紹介の記事を参照。
  5. ^ 『山梨人事興信録』甲府興信所、1918年3月、こノ部 551頁。NDLJP:913311/293。「東京市麹町区中六番町休職勅任式部官恩地孝四郎」 
  6. ^ 「師範学校中学校高等女学校教員免許状授与」『官報』第3491号、大蔵省印刷局、1938年8月22日、804頁、NDLJP:2959982/13 
  7. ^ 恩地三保子」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E6%81%A9%E5%9C%B0%E4%B8%89%E4%BF%9D%E5%AD%90コトバンクより2024年5月11日閲覧 
  8. ^ 『七つの手紙』:旧字旧仮名 - 青空文庫

外部リンク

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