コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

クオリア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
感覚質から転送)
この画像を見る者の網膜には波長 630-760 nm の成分の際立つ光が十分な密度で届くはずであり、このときいわゆる「赤色」に対応するクオリアを体験するであろう。[注 1]

クオリア英語: qualia〈複数形〉、quale〈単数形〉)または感覚質とは、『脳科学辞典』によれば、感覚的な意識経験のこと[1]、意識的・主観的に感じたり経験したりするのこと[1][注 2]。『広辞苑』によるとクオリアは「感覚的体験に伴う独特で鮮明な質感」であり、「脳科学で注目される」概念である[2]

神経科学者土谷尚嗣らの論文によれば、クオリア(主観的意識)は理数系学問自然科学)で観測解明できないという見解が哲学心理学認知科学などから多く出ている[3][4]。一方で神経科学などからは、クオリアを観測し解明を進めている研究が複数発表されている[5][6][7][注 3]

概要

[編集]
笛から発せられた空気振動(音)が、笛の音のクオリア「ピー」を発生させるまでの流れ(左端:笛、青:音波、赤:鼓膜、黄:蝸牛、緑:有毛細胞、紫:周波数スペクトル、橙:神経細胞の興奮、右端:笛の音のクオリア)。

辞事典による定義・解説

[編集]

2016年、『脳科学辞典』で神経科学者の土谷尚嗣が執筆した項「クオリア」によると「脳科学では、クオリアはなんらかの脳活動によって生み出されていると考える」[1]。また前掲書には、「哲学者は長くクオリアについて論じてきたが、クオリアという概念意味があるかどうかですら、意見が分かれている」とある[1]

2009年、『スタンフォード哲学百科事典』で哲学者のマイケル・タイが言うにはクオリアとは、心的生活のうち、内観によって知られうる現象的側面である[10]

2000年代後半~2010年代の研究事例

[編集]

解析とデータ化

[編集]

2009年に精神科医・神経科学者ジュリオ・トノーニ計算神経科学者デイヴィッド・バルドゥッツィは、意識の統合情報理論に基づく学術論文「クオリア:統合情報の幾何学」を発表した[5]。この論文は幾何学的手法によって、クオリアの複合体である「クオリア空間(“qualia space”、略称は“Q”)」を、「神経生理学データ(“neurophysiologic data”)」として計測した[11]。前掲論文は例えば、次の通り述べている[12]

4つの要素でできている系〔システム system〕におけるクオリア空間は、16次元である(このクオリア空間は、その複合体において24個存在する可能状態のそれぞれに軸を持つ)。それら複数の軸はページ上で平らに置かれている。x1=1000の状態に入ると、複合体はQ空間〔クオリア空間〕の中でクアーリ〔クオリアの単数形 quale〕または形状を生成する。[12][注 4]

2017年に神経科学者・医用工学者ロジャー・D・オープウッドの学術論文は、「ECoGデータ(皮質脳波検査データ)」およびガンマ波振動とアトラクターを解析して、「クオリアは高確率で局所的皮質ネットワーク内における情報処理の結果である」と述べている[6][注 5]

2018年にIBM社が出願した情報工学特許技術では「疲労気分、および疼痛苦痛の重症度」等といったクオリアを、「クオリアデータ(“qualia data”)」として情報処理している[7]

1990年代~2000年代前半の研究事例

[編集]

解析の試み

[編集]

茂木健一郎は1997年に『脳とクオリア』を出版し[13]、2002年にはその改訂版("updater")をWebページとして公開した[13][14]。茂木のWebページによれば、クオリアは「私たちのが感じることのできる質感」である[15][要出典科学]。クオリアは2種類あり、一つは「ユニークで独立したある種の感じ」としての「感覚的クオリア」、もう一つは「『何かに向けられている』感覚」としての「志向的クオリア」だという[15][要出典科学]

茂木は2001年の『日本ファジィ学会誌』の論文で、クオリアの定量的研究について次のように述べている[16]

数や量で表現できるような物質の性質に比較すると、クオリアは、曖昧なもののように思われる。 … クオリアは、曖昧だからこそ、ニューロンの発火頻度や、膜電位のような定量的な記述ができないのだ、そのように思いがちである。


しかし、脳内にあるニューロンの発火パターンが生じた時に、私たちの心の中にどのようなクオリアが生じるかという対応原理は、実際には極めて厳密なものであると考えられる。現在〔2001年〕、私たちが主観的に体験するあらゆる表象は、脳内のニューロン活動に伴って生じる「随伴現象」(epiphenomenon)であるという説が有力である」[16][注 6]

もしクオリアに関して物質的過程でない「隠れたパラメータ」を主張するならば、それは「心脳二元論を唱えているに等しい」、と茂木は言う[16]物質系には、原因と結果の「因果的必然性」がある[17]。客観的な物質系は、定量的な変数位置速度運動量など)によって決定されており、これが物質系の「因果的必然性」である[18]。主観的なクオリアの「因果的必然性」は、物質系の「因果的必然性」に従っている[18]。そして物質系の「因果的必然性」を表現する際は、定量的な記述(微分方程式差分方程式行列力学セルオートマトン経路積分など)が使われている[18]。茂木によればクオリアの「因果的必然性」も、同様に厳密な原理に基づいているが、これを表現する記述方法はまだ見つかっていない[17]

なお、クオリアがニューロン活動に伴う現象として数学的形式化(定量化)されクオリア問題が解決されていくと、ヴィトゲンシュタイン以来の「言語論的転回」が起きると茂木は述べている[19]。「ニューロンの活動も究極的にはシュレディンガー方程式のような定量的な法則によって支配されている」が、「そもそもニューロン活動を客観的に記述している時に用いている数学的フォーマリズム数学的形式〕とクオリアがどのような関係にあるのかが明らかにされなければ、問題の本質的な解決にならないだろう」[20]。例えば数学的言語の一つに、「シュレディンガー方程式」がある[19][注 7]。これに対しクオリアは「一見数学的フォーマリズム〔数学的形式〕に乗らず、一切の定量化を拒否しているかのように見える」[20]。しかし人間の認知過程上では、「シュレディンガー方程式」は《白いクオリア(背景色)の上にある黒いクオリア(文字色)》として認知されている[20]。つまりクオリアを表現しているという点では、自然言語として表現される風景(「木漏れ日」等)も、数学的言語として表現される「シュレディンガー方程式」も同様である[20]

つまりクオリアの表現という点から考えれば、実は「数学的言語」と「自然言語」との間に本質的な差は無い[20]。クオリアが数学として解明されていけば[19]、人間の知性(すなわち数学的言語と自然言語)を基礎から再検討することが近い将来必要になる、と茂木は結論している[20]

その他

クオリアの問題は説明のギャップ、「クオリア問題」または「意識のハードプロブレム[22]などと呼ばれている。

歴史

[編集]

クオリアという言葉は、「質」を意味するラテン語名詞 qualitas (あるいは qualis) に由来する。この言葉自体の歴史は古く、4世紀に執筆されたアウグスティヌスの著作「神の国」にも登場する。しかし現代的な意味でこのクオリアという言葉が使われ出すのは、20世紀に入ってからのことである。[要出典]

まず1929年、哲学者クラレンス・アーヴィング・ルイスが著作『精神と世界の秩序』[23]において現在の意味とほぼ同じ形でクオリアという言葉を使用した。

与件(the given)の識別可能な質的特徴というものがたしかに存在する。それは異なる諸経験において復現(リピート)し、それゆえ、普遍者の一種である。それを私は「クオリア」と呼ぶ。そうしたクオリアは、この経験においてそしてあの経験において何度も認識されるという意味で普遍者ではあるのだが、しかし物体の性質とは区別する必要がある。 … クオリアは直接に経験され、与えられる。そして、いかなる誤りの可能性ももたない。というのもそれは純粋に主観的だからである。他方、物体の性質は客観的である。すなわち物体に性質を帰属させることは、誤りのある一つの判断である。物体を述定することで主張されるのは、ある単一の経験の中で与えられうるものを超越した事柄なのである。 — ルイス『精神と世界の秩序』(1929年)[24][25]

その後、1950年代から1960年代にかけて、ルイスの教え子であるアメリカの哲学者ネルソン・グッドマンらによってこの言葉が広められた[26]

1974年、主観性の問題に関する有名な論文が現れる。アメリカの哲学者トマス・ネーゲルが提示した「コウモリであるとはどのようなことか」という思考実験において[27][28]、物理主義は意識的な体験の具体的な表れについて、完全に論じ切れていない、という主張が強く訴えられた。1982年にはオーストラリアの哲学者フランク・ジャクソンが、マリーの部屋という思考実験を提唱し、普通の科学的知識の中にはクオリアの問題は還元しきれないのではないか、という疑念が提唱された[29]また1983年にはアメリカの哲学者ジョセフ・レヴァインが、脳についての神経科学的な説明と、私たちの持つ主観的な意識的体験の間には、ギャップがある、という説明のギャップの議論を展開する。こうしたネーゲル、ジャクソンの論文が登場しはじめた1970年代後半あたりから、徐々に科学や物理学との関連の中でクオリアの議論が展開されることが多くなった。[要出典]

こうした流れの中で最も強い反響を得たのは、オーストラリアの哲学者デイヴィッド・チャーマーズの主張である。1995年から1997年にかけてチャーマーズは一連の著作[22][30]を通じて、現在の物理学とクオリアとの関係について、ハードプロブレム哲学的ゾンビといった言葉を用いて非常に強い立場での議論を展開する。今までの哲学者の議論がどちらかというと控えめな形での物理主義批判であったのに対し、チャーマーズは「クオリアは自然界の基本的な要素の一つであり、クオリアを現在の物理学の中に還元することは不可能である。意識の問題を解決するにはクオリアに関する新しい自然法則の探求が必要である。」という強い立場を前面に押し出す。このチャーマーズの立場は岩石やサーモスタットにさえ意識体験があるとする汎心論を含むほど強い立場であり、古典的なデカルト的実体二元論の復活だ、といった誤解による批判も含めて強い反論があった。こうした強い反応が出た背景には脳科学・神経科学が大きい注目を浴び始めていた時代的タイミングがあった。何にせよ、この議論は大きな反応を呼び、今まで一部の哲学者の間だけで議論されていたクオリアの問題が広い範囲の人々、哲学者のみならず、神経科学者や、エンジニア、理論物理学者などへ知れ渡る一つのきっかけとなる。[要出典]

その後、ツーソン会議 (1994年-) や意識研究学会 (1994年-) などの国際的な研究会・学会も継続的に開催され、Consciousness and Cognition (1992年-) , Journal of Consciousness Studies (1994年-) , Pysche (1994年-) といった意識を専門的に扱う学術雑誌も号を重ねる。そして意識の問題を扱った数多くの書籍が出版されていく。これらによって意見の一致が見られるようになった、というわけではないが、さまざまな分野でどういう問題が議論されているのか、何が論点なのか、といった問題に関する情報についての相互理解は進むようになった。[要出典]

哲学的な思索の歴史を振り返ると、類似の意味を持った概念は歴史上、いくども使われている。たとえばジョン・ロックが一次性質と対比させて使った二次性質という概念、カントが物自体という概念と対比して使った表象論理実証主義者たちが使用したセンス・データ(感覚与件)の概念、また現象学における現象、そして仏教における六境西田幾多郎における純粋経験等がある。これらは異なる文脈や意味で使用されてきた言葉だが、主観的な意識的な体験、意識的な現れ、のことを主に指す言葉として、それぞれの時代の議論の中で用いられた。[要出典]

西洋哲学の歴史の中での扱いの変化を見ると、こうした意識へ表れるもの、というのは、長い間、もっとも確実で疑い得ないものとして扱われてきた。つまり主に認識論(正しい知識とは何か、確実な知識とは何か、ということを扱う哲学の一分野)の議論の中で、一番確実視される基盤的なものとして扱われることが長く続いた。たとえばカントは、世界の本当の所どうなっているかは分からない(物自体は知りえない)、しかし意識への表れ、表象については語りうる、といった認識論を展開した。20世紀前半の論理実証主義者らは、科学の認識論的な基礎付けは、さまざまな命題を最終的には感覚的な言明(赤い色が見える、など)に帰着させることで達成されるだろう、といった考え方をした。しかしこうした20世紀前半まで、西洋哲学の中で、そうした主観的で意識的な感覚というのがそもそも何なのか、という議論はさほど活発ではなく、問われることもそう多くなかった。 20世紀終盤になって出てきたクオリアに関する説明のギャップやハードプロブレムの議論は、認識論の文脈というより、主観的な意識的体験とは何のか、これは脳と同じものか、違う存在か、といった存在論的な議論が大きい比重を占めている。[要出典]

様々なクオリア

[編集]

人間の体験するクオリアは実に多彩であり、それぞれが独特の感じをもつ。たとえば視覚、聴覚、嗅覚からはそれぞれ全く違ったクオリアが得られる。どういった状態にクオリアがともない、またどういった状態にはともなわないのか、この点はしばしば議論の的となる。[要出典]以下に、独特の質感を持つ、つまりクオリアを持つと多くの人が考えるものの例をあげる[注 8]

エルンスト・マッハが座椅子に腰かけ、左目だけを開けていたときの視覚体験。中央付近には右手に持った鉛筆、上にはマッハの眉毛、右側にはマッハ自身の鼻が、下にはマッハ自身の口ひげが描かれている。
視覚体験
視覚体験の様々なクオリアのうち、色はその単純さから頻繁に議論の対象となり、特にリンゴの赤、空の青などがある。他に視野全体の明暗や、さらには奥行きともいわれる両目の視差や焦点のずれたときのぼやけた感じというのがクオリアに相当しうる。[要出典]
聴覚体験
聴覚からもたらされるクオリアとして音色、音の高度、音程や和音、音が時間をかけて連なったときの音形、音楽を聞いたときにうける独特の感覚などがある。[要出典]
言語体験
日本人に多いとされる[l]とTemplate:Barcketを区別できないという状態は、この2つの音または文字に対するクオリアが同一ということがありえる。ネコの声をあらわす擬音は英語、ドイツ語フランス語中国語ではTemplate:Barcketをふくむが、日本語ではTemplate:Barcketをふくむ。これを同じ音に対しクオリアが異なる例とする説明はありえる。[要出典]
触覚体験
触覚からもたらされるクオリアとしては、シルクの布を撫でた時に感じられるツルツルした感触、無精ひげの生えたあごを撫でた時に感じられるザラザラした感触、水を触ったときの感じ、他人の唇に触れたときの柔らかい感じなどがある。[要出典]
この形の分子を吸い込むと、メントールの香り、いわゆるミントの香りがする。
嗅覚体験
嗅覚から得られるクオリアは、もっとも言葉で表現しにくい感覚のひとつである。朝、台所から流れてくる味噌汁の香り、病院に漂う消毒液の匂い、公衆便所の芳香剤の臭いなど。 分子レベルのメカニズムとしては、臭いは鼻腔の奥の嗅細胞において検知される。ここで鍵と鍵穴の仕組みで、レセプターに特定の分子が結合した際に、特定の香りが体験される。しかしながら、ある特定の形状の分子が、なぜある特定の香りをともなっているのか、まだ分かっていない。また、マツタケのにおいを芳香と感じる民族と悪臭と感じる民族があるように、民族により臭いのクオリアも違う可能性がある。[要出典]
味覚体験
味覚は甘味、酸味、塩味、苦味、うま味の五つの基本味から構成されていると考えられており、これらの組み合わせによって数々の食料・飲料品の味が構成されている。分子レベルのメカニズムは、嗅覚と同様に、舌にある味覚受容体細胞において、鍵と鍵穴の仕組みでレセプターに特定の分子が結合すると、特定の味が体験されることになる。しかしながら、嗅覚の場合と同様、ある特定の形状の分子が、なぜある特定の味をともなっているのか、まだ分かっていない。[要出典]
痛覚
痛みの感覚は哲学者たちにとって、主観的な感覚について議論するための代表的な素材の一つとなっている。痛みに関する情報を伝達するC線維(疼痛)のような神経線維の活動電位と、火傷した皮膚のチリチリした痛みや、虫歯がもたらすズキズキとした感覚との間には、どういう関係があるのか。それは同一性の関係か、または別の種類のたとえば付随性といった関係か、といったことが議論される。ちなみに神経科学者のクリストフ・コッホは虫歯になってその痛みに苦しんでいるときに、「歯痛がなぜ「痛い」のか、自分の持つ生理学の知識では理解できない」と思い、そこから意識の研究者となることを志したという。[要出典]

他にも冷熱体験や、さらには感情もクオリアをともなうと考えられている。[要出典]

心的表象、意識的な思考、そして自分という感覚は、それが質感を持つかどうかについて議論が分かれる。[要出典]

このようなクオリアの種類のことを感覚のモダリティーと呼ぶ。感覚のモダリティーは基本的にお互いに異なっているのだが、時には違ったモダリティーが混ざり合うこともあり、そのような現象は共感覚と呼ばれている。[要出典]

定義と性質

[編集]

Daniel Dennett はクオリアの要因として4つの特性を示した。 これによるとクオリアはつぎの4性質を備える。

  • INEFFABLE, 言葉で表せない - 他者と伝達できない。その体験そのもの以外の何物によっても捉えられない。
  • INTRINSIC, 内在的である - 相対的とか相関的なものではない。その体験自体とは別なこととの関係に依存しない。
  • PRIVATE, 本人にしかわからない - クオリアについて人間相互で系統的に比較することはできない。
  • directly or immediately apprehensible by consciousness, 知覚によって直接ないし即座に捉えられる - クオリアを体験することは、クオリアを体験する者を知り、なおかつそのクオリアについて知るべきすべてを知ることである。

クオリアがどういったものかであると定義するかには様々な考え方があるが、おおよそ次にあげるような性質があるものとして議論される。

言語化不可能(: ineffable
体験される質感そのものを言語化して伝えることは困難であるとされる。例えば生まれつきの色盲の人に「赤い」というのがどういうことか、「青い」というのがどういうことかを伝えようにも、言語化して質感そのものを伝えることには困難をともなう。質感そのものを言語として概念化しがたいことは、質感が言語という情報と直接的な因果関係がない: no conceptual)ものだからという推測がある。[要出典]
誤り不可能(: incorrigible
クオリアの性質として、それは誤り得ない(訂正を受けない)との主張がある。人は様々な錯覚を持ったり、また時に幻聴を聞いたり、外界の実在と対応しない人特有の様々な感覚を持つ。しかしそうした体験された感覚自体は、誤りえない実際の体験であるとの主張がある。[要出典]
私秘的(: private
他者から観測できない個人的なものである、とされる。本人が特権的にアクセスできるという意味で特権的アクセス: privileged access)という用語も存在する。[要出典]

クオリアに関する思考実験

[編集]
逆転クオリア (Inverted qualia) 同じ波長の光を受け取っている異なる人間は同じ「赤さ」を経験しているのか

クオリアの問題を扱った思考実験に以下のようなものがある。

逆転クオリア
同等の物理現象に対して、異質のクオリアがともなっている可能性を考える思考実験。色についての議論が最も分かりやすいため、色彩について論じられることが最も多い。同じ波長の光を受け取っている異なる人間が、異なる「赤さ」または「青さ」を経験するパターンがよく議論される。逆転スペクトルとも呼ばれる[31]
哲学的ゾンビ
すべての面で普通の人間と何ら変わりないが、クオリアだけは持たない、という仮想の存在。心の哲学において、クオリアという概念を詳細に論じるためによく使われる。[要出典]
マリーの部屋
生まれたときから白黒の部屋に閉じ込められている仮想の少女マリーについてのお話。マリーは白、黒、灰色だけで構成された部屋の中で、白黒の本だけを読みながら色彩についてのありとあらゆる学問を修める。その後、この部屋から解放されたマリーは色鮮やかな外の世界に出会い、初めて、というものを実際に体験するが、この体験(色のクオリアの体験)は、マリーのまだ知らなかった知識のはずである。このことからクオリアが物理学的・化学的な現象には還元しきれないことを主張する。[要出典]
コウモリであるとはどのようなことか
コウモリはどのように世界を感じているのか。コウモリは口から超音波を発し、その反響音をもとに周囲の状態を把握している(反響定位)。コウモリは、この反響音をいったい「見える」ようにして感じるのか、それとも「聞こえる」ようにして感じるのか、または全く違ったふうに感じるのか(ひょっとすると何ひとつ感じていないかも知れない)。こうしてコウモリの感じ方、といったことを問うこと自体は可能だが、結局のところ我々はその答えを知る術は持ってはいない。このコウモリの議論は、クオリアが非常に主観的な現象であることを論じる際によく登場する[27][28]

自然科学との関係

[編集]

たとえばリンゴの色について考えた場合、自然科学の世界では「リンゴの色はリンゴ表面の分子パターンによって決定される」とだけ説明する。つまり、リンゴ表面の分子パターンが、リンゴに入射する光のうち700ナノメートル前後の波長だけをよく反射し、それが眼球内の網膜によって受け取られると、それが赤さの刺激となるのだ、と説明する。[要出典]そしてこの一連の現象のうち、[要出典]

  • どのような分子がどのような波長の光をどれぐらい反射するのか(光化学[要出典]
  • 反射した光は、眼球に入った後、どのようにして網膜の神経細胞を興奮させるのか(→網膜→錐体細胞→ロドプシン→レチナール)[要出典]
  • その興奮は、どのような経路を経て脳の後部に位置する後頭葉(視覚野)まで伝達されるのか(→視神経→視交差→視索→外側膝状体→視放線→視覚皮質)[要出典]
  • 後頭葉における興奮は、その後どのような経路を経て、脳内の他の部位に伝達していくのか(→腹側皮質視覚路、背側皮質視覚路)[要出典]

という点に関しては神経科学でも物理学でも哲学でも、専門分野の違いに関わりなく、ほぼすべての研究者の間で意見が一致する。[要出典]

だがこうした物理学的・化学的な知見を積み重ねても最後のステップ、すなわち「この波長の光がなぜあの「赤さ」という特定の感触を与え、この範囲の光はどうしてあの「青さ」という特定の感触を与えるのだろうか」といった問題は解決されない。[要出典]

この現在の自然科学からは抜け落ちている残されたポイント、すなわち「物理的状態がなぜ、どのようにしてクオリアを生み出すのか」という問題について、哲学者ディビッド・チャーマーズは1994年、ツーソン会議という意識をテーマとした学際的なカンファレンスで「それは本当に難しい問題である」として、その問題に「ハード・プロブレム」という名前を与えた[32]

向精神薬や大脳皮質への電気刺激の実験などからも分かるように、「脳の物理的な状態」と「体験されるクオリア」の間には因果関係があると推測される。しかしながらそれが具体的にどのような関係にあるのかはまだ明らかではない。この「脳の物理的な状態」と「体験されるクオリア」がどのような因果関係にあるのか、という問題に対しては、抽象的ではあるが様々な仮説が提唱されている[33]。こうした「クオリアを整然とした自然科学(とりわけ物理学)の体系の中に位置づけていこう」という試みは、クオリアの自然化英語: naturalization of qualia)と呼ばれ、心の哲学における重要な議題のひとつとなっている[34]

クオリアに関する様々な立場

[編集]

クオリアに関する議論は様々な論点が知られている。なかでも最も大きな論争となるのは、クオリアは現在の物理学の中でどこに位置づけられるのかという、形而上学的・存在論的な位置づけについての哲学的な議論である。この問題に対する考え方や分類は論者によって様々であり、一概に分類することはできない。しばしば、各人の立場は物理主義から二元論までの段階的なスペクトルのどこかに位置づけられるとも言われる。ここでは簡単に心身問題の伝統的な三つの立場、物理主義的立場(いわゆる唯物論的立場)、そして二元論的立場、そして観念論的立場、の三つに分けて説明する。現在の議論の中心は主に物理主義的な立場と二元論的な立場の間で行われている。哲学的な立場に関するより詳細な分類についてはチャーマーズによるA, B, C, D, E, Fの6分類[35]などがある。

物理主義的立場

[編集]

クオリアは何か非常に真新しく、現在の物理学の中には含まれていないもののように見えるが、そんなことはない、すでに含まれているのだ、という立場。こうした立場は一般に唯物論または物理主義的と呼ばれる。[要出典]

この立場を取る世界的に有名な論者としてフランシス・クリック[36]ダニエル・デネット[37]、チャーチランド夫妻(パトリシア・チャーチランドポール・チャーチランド)が、また日本語圏で有名な論者として信原幸弘[38]金杉武司[39]がいる。この立場ではフロギストンカロリック生気といった科学史上の誤りを例にとって、クオリアもそうした例のひとつに過ぎないと考える。物理主義的立場には、同一説機能主義消去主義表象説高階思考説など様々なバージョンがある。

志向説(表象説)

[編集]

クオリアに関する物理主義的立場の代表的なものの一つが、志向説(表象説)である。その主要な論者はギルバート・ハーマンマイケル・タイフレッド・ドレツキである。彼らによれば、クオリアは(あるいはクオリアの代わりにあるものは)、ある種の志向的内容(表象内容)である。このようにクオリアと志向性の関わりを積極的に提案する者はしばしば物理主義者であり、かつしばしば機能主義者であるが、必ずしもそうとは限らない。例えばデイビッド・チャーマーズは物理主義者ではないが、クオリアと志向性に密接な関わりがあると考えている。[要出典]

二元論的立場

[編集]

クオリアは現在の物理学の範囲内には含まれていない、と考える立場。つまり既知の物理量の組み合わせでクオリアを表現することはできない、という立場。こうした立場は一般に二元論的と呼ばれる。ただし二元論と呼ばれてはいるが、霊魂の存在を仮定するデカルト的な実体二元論を主張しているわけではない。この点を区別するために現代の意識に関する二元論のことを自然主義的二元論とも言う。[要出典]

この立場は大きく次の二つに分かれる。ひとつは「物理学の拡張によって問題は解決される」という立場である。そしてもう一つは「そもそも私達人間の思考能力、認知能力の範囲内では、この問題は解けない」という立場である。[要出典]

ジュリオ・トノーニの 意識の情報統合理論によれば、脳内で強く統合されたエレメント(皮質のミニコラム程度の大きさの要素)の特定の集まりが、コンプレックスと呼ばれる情報的な結合体を形成し、そのコンプレックス内での各エレメントの発火が単一のクオリアと非常に近い形で対応する、とする。そして、瞬間瞬間の意識体験は高次元空間(クオリア空間)上の一点で指定されるとする[40]
ペンローズハメロフが提唱した客観収縮理論によると、波動関数が収縮する際に、意識体験(クオリア)が生まれる、とされる。

物理学拡張派

[編集]

クオリアは現在の物理学に含まれていないから、クオリアを含んだより拡張された物理学を作ろう、という立場。世界的に有名な論者としてデイビッド・チャーマーズ[30]ロジャー・ペンローズ[41]が、またペンローズの流派に属する日本語圏で有名な論者として茂木健一郎[42]がいる。この立場には二つの違った流れがある。

1. 情報に注目する立場
クオリアと物理現象の間をつなぐ項として、情報に注目している一連の研究の流れがある。ジョン・アーチボルト・ウィーラーの 「it from bit」(すべてはビットからなる)という形而上学に影響を受けて主張されたデイビッド・チャーマーズ情報の二面説英語: dual-aspect theory of information)や、ジュリオ・トノーニ意識の情報統合理論[40]のような数学的な構成を持った理論がある。トノーニは意識の単位はビットだと主張する。
2. 量子力学に注目する立場
クオリアと量子力学における観測問題との間に何らかの関係があるのではないか、と考える一連の研究の流れがある。しばしば量子脳理論と一括りで表現されることもあるが、そうした理論の中で最も有名なものとして、ロジャー・ペンローズスチュワート・ハメロフの提唱する波動関数の客観収縮理論(Orch-OR Theory)がある[43][44]。この理論によれば、脳内でチューブリンというタンパク質波動関数が収縮する際に、意識体験(クオリア)が生まれる、とされる。そしてこの収縮が連続して継起することで意識の流れが生み出される、とされる。ただこれは理論物理学者が思考例として提示した仮説に過ぎないものであり、その内容はまだいたって概念的なものであって、数式や方程式の形で具体的に示されているわけではない。

ニューミステリアン

[編集]

クオリアは現在の物理学に含まれておらず、ハードプロブレムは依然として残っているが、私たち人間の能力では、この問題は解くことができないだろう、と考える立場。一般に新神秘主義と呼ばれる。[要出典]

代表的な論者にトマス・ネーゲルコリン・マッギン[45]スティーブン・ピンカーなどがいる。ネーゲルは意識の主観性の問題を解決するには、宇宙に関する見方を根本的に変えるような概念枠の変化がない限り無理だろう、と考える[46][47]。マッギンは、人間という種が持つ固有の認知メカニズムはある一定の能力的限界を持っており、そのキャパシティを超えた問題が人間には把握できない、という認知的閉鎖英語: cognitive closure)の概念を軸に置く。そして意識の問題はそうした私たち人間のキャパシティの範囲を超えた問題、つまり解決できない問題なのだと考える。

観念論的立場

[編集]

主観性を思考の出発点に置きつつ物理主義と二元論の間の対立の構図を批判する立場がある。この立場から主張される主な論点として、物理主義も二元論もともに客観的な物理的実在を最初から前提している事についての批判、がある。たとえばマックス・ヴェルマンズMax Velmans)は再帰的一元論英語: reflexive monism)と呼ぶ自身の立場の中で(2008年、Reflexive Monism[48]、客観的な物質概念は意識体験から得られたものであり、客観的な物質概念を最初から前提している立場は、それが物理主義的立場であれ二元論的立場であれ、そもそもの議論の前提がおかしいと主張する。こうした立場からの分析は現象学的アプローチ(Phenomenological approach)とも呼ばれる。

日本語圏では永井均がこれと似た主張を行う[49][50]。永井は客観的な物質概念はもとより、現象意識という概念も一種の構成概念であるとし、まずあるのはたった一つの自分の主観性(永井は<私>、「これ」などと書く)だけである点を強調する。加えて永井は主観的な意識の問題は、「現在であること」(現在性、now)、「現実であること」(現実性、actuality)などと同じ、内容的規定性を持たないという点からくる問題だとする(「今」が人によって違っても何も違うと言える所がない、この世界が実在の世界でなくただの可能世界であっても何も違うと言える所がない、この世界から<私>が消え去っても何も違うと言える所がない)。それゆえに、この問題は真性の問題ではあるけれども、にもかかわらず公共的な言語の上では語ることができないもの(ウィトゲンシュタインが言うところの「語り得ないもの」)であり、言語で取り扱えないものだとする。

科学者

[編集]
NCC 探索の基盤となる枠組み。散歩しているイヌ(一番左)を見ている人(左から二つ目)の脳内で起きている様々な神経細胞の興奮(左から三つ目)の集まりのうち、その一部がNCCとして(図中の丸で囲まれている部分)、心に浮かぶイヌの像(一番右)つまり主観的な意識体験を生み出す役割を担っている、とする。クリストフ・コッホに代表される一部の神経科学者たちは、こうした考え方のもと、NCCを発見・同定することを目指して研究を行っている。

科学の立場からの研究においては、上に述べたようなクオリアに関する存在論的な議論(「この世界に本当にあるのは何か?」という議論)には直接関わらないのが一般的である。神経科学分野の有名な(非常に分厚い)教科書 カンデルPrinciples of Neural Science では意識の主観性の問題に数ページを割いている。そこでは、科学者にはハードプロブレムに直接取り組む前にやるべき事がまだ数多くあるのでそこを研究していけばよい、ということを科学者としての一つの一般的姿勢として示している[51]フランシス・クリックは「ハードプロブレムに直接取り組むべきでない」こと、またクリストフ・コッホは「意識の神経相関物と意識体験の関係を仮定せず」に研究を行うことを書いている[52]。こうした科学者の主張する内容にはいくつかの点があるが、主に次のようなものがある。

  • 意識の問題は実証的な科学の問題であり、哲学者がやるような椅子に腰掛けて思考実験や概念分析を繰り返すだけで前に進む問題ではない。
  • 哲学者は歴史的に多くの問題を提起してきたが、それを自分たちで解決できたことはない。哲学者が議論を通して生み出す色々な概念は一定の有用性があるけれども、それだけではダメであり、意識について科学的に地道に研究していく必要がある。
  • 意識についての科学研究はまだほとんど進んでいない。科学的に調査出来ることがまだまだ膨大にある現状で、たとえば新神秘主義のように意識の問題は解決できないといった立場を主張することなどは、時期尚早である。

こうした考えを背景に科学者は意識体験に関する実証的な調査・研究を進めている。

意識に相関した脳活動の探索

[編集]

意識と相関するニューロン(意識に相関した脳活動NCC: neural correlates of consciousness 特定の意識体験を起こすのに必要な最小のニューロンのメカニズムとプロセス)を同定していく研究[53]。クリストフ・コッホ[54]が有名である。

事例・症例の研究

[編集]

これはNCCの研究と並行するが、盲視半側空間無視共感覚幻肢痛、といった様々な事例・症例の調査・研究をもとに質感の問題にアプローチしていくスタイル。ラマチャンドラン[55]が有名。

一般に科学者たちは哲学的な意味での自身の立場ははっきりと主張しないことが多い。科学者ならば全員が物理主義者なのだろう、とも思うかもしれないが、別にそういう分けではなく、各人のクオリアに対する哲学的な立場は様々である。たとえば運動準備電位の研究で有名なベンジャミン・リベットや、また睡眠の研究者であるジュリオ・トノーニのように、自然主義的二元論的な意識についての理論を発表している者もいるし、またヴィラヤヌル・ラマチャンドランのように自分は中立一元論者だとはっきり哲学的なポジションを明言しているような科学者もいる。

論点

[編集]

クオリアという主題には数多い論点があり、その全体をここで網羅しきることはできない。幾つかの代表的な論点を挙げる。

まず有名な論点として「そもそもクオリアなんてない」という非常に根本的な反論がある。こうした主張を強く行う人物として有名な哲学者としてダニエル・デネットがいる[56]。デネットの立場は消去主義的唯物論Eliminative materialism)、または消去主義(Eliminativism)と言われる。デネットが行う主張を左側として、デネットがその論敵としている対立側を右側として、両サイドがどういった点で対立し、そしてどういう点では一致しているのか、その状況を以下に簡単に一覧する。

感覚質などない 感覚質はある
脳のすべての過程は物理的・科学的な方法で説明、解明できる。 脳のすべての過程は物理的・科学的な方法で説明、解明できる。
それで、もう説明されずに残るものなどない。それで意識の全てが説明される。 それでも説明されずに残るものがある。それがクオリアである。
脳の過程で説明されないクオリアというのが何のことなのか、分からない。右のような考えは素朴な直感に基づいた、誤った考え、単なる錯覚である。 脳の過程より何より、クオリアが在ることほど、確実なことはない。左のような主張はどこかで現象性を密輸入しているか、自己欺瞞であるか、または神経系における何らかの機能的障害であろう。
右のような奇妙な事をこれほど自信満々に言う人たちが、一体なぜいるのか。これには何らかの科学的な説明が必要だろう。 左のような奇妙な事をこれほど自信満々に言う人たちが、一体なぜいるのか。これには何らかの科学的な説明が必要だろう。
現象判断の過程、つまりクオリアについて判断している神経過程について科学的に研究すべきである。 現象判断の過程、つまりクオリアについて判断している神経過程について科学的に研究すべきである。

デネットからすると、クオリアがある、などという主張は錯覚でしかなく、ハードプロブレムは完全な擬似問題である。しかし質感があると確信している側は、この問題を「錯覚」として消去しようという主張は、あり得ないとして拒絶する。この点についてデネットは、これほど強い錯覚が生じるのは、それを担っている一定の神経基盤があるからだろうと論じる。心理学者ニコラス・ハンフリーもデネットと似た立場を取る[57]。ハンフリーによれば、ヒトにとって意識が不可解に思えるのは、そういう錯覚を生み出す機構が脳内にあるからであり、そして「不可解に思えること」それ自体が進化的な意味を持っている、とする。つまり意識が不可解に思えるという錯覚が、不滅の霊魂や来世といった信念の余地を残し、それにより知性を持った人間を完全な絶望からくる自殺から遠ざける、といった意味を持っただろうとする。つまり「意識を不可解であると誤解する機能」からの適応度の向上(残される子孫の数の増加)への寄与があったのではないか、とする。

逆にネド・ブロックなどは、デネットは認知に関わるある種の機能障害を持っているのではないか、という可能性を指摘する。ブロックがこうした主張を行う背景には一定の経験がある。ブロックは自身の教員としての経験から、現象性の問題を理解できない人が、なぜかは分からないが一定数いる、と語っている。ブロックによれば、大学初年度の学生に逆転クオリアの思考実験について説明すると、およそ3分の2の学生は「何を言ってるか分かる」と答えると言う。中には小さいころから自分でその問題を考えていた、という学生もいるという。しかし残りの3分の1の学生は「何の話をしているのか分からない」と答えると言う。ブロックは逆転クオリアの思考実験は、10歳に満たない自分の娘でも理解できたのに、なぜ一部の大学生に理解できないなどという事があるのか、と疑問を持つ。そしてブロックは、ある種の認知的な機能の違いが、現象性の問題の理解を妨げてるのではないかという可能性を指摘する。そしてそうした人の中から、デネットのような主張を行う人が出てくるのではないか、とする。そして、こうした機能的差異は実験的に研究できる対象であろうから、逆転クオリアのようなある種の思考実験への反応と、他のファクターとの相関を取って研究することが可能ではないか、と指摘する[58]

こうして両サイドの主張は真っ向から食い違っているものの、現象判断の過程、つまりクオリアについて判断している神経過程について科学的に研究することが重要だ、という点では、両サイドにいる多くの論者の考えは一致している。

関連する話題

[編集]

意識メーター

[編集]

クオリアの科学はどのようにすれば可能なのか。科学的方法論に基づいてクオリアを扱おうとすると出会う最大の困難は、実験で直接クオリアを測定できないことである(将来的にどうであるのかについてはクオリアに対して取る哲学的立場により帰結は異なる。物理主義的立場なら原理的には可能であろうし、二元論的立場ならその因果的な性質に応じて、可能または不可能である)。このことを「我々は意識メーター(consiousness meter)を持たない」などと比喩的に表現することもある[59]。この他者の主観的経験を観測できないという問題は、歴史的には他我問題として議論されてきた(この観測不可能性を他者の内面の不存在にまで極端化した立場は独我論と呼ばれる)。例えば、単純に観測できそうな快感の度合いすら他者には観測できない。顔を歪め息も絶え絶えに体を痙攣させている女性がいるとしよう。一見、苦痛を感じてるように見えるが、実際にはA10神経が興奮しβエンドルフィンが多量に分泌され、激しい快感を覚えていることが分かる。ここまでは分かる。しかし、その快感がどのように感じられているのかが分からないのである。実際にオーガズムを感じたことのない女性には、それがどのようなものかが分からないということはとても多い。実際に感じるしか方法がない現在、どうすればクオリアや意識を科学の表舞台に引き上げられるのか、その方法論や哲学的基礎づけに関して様々な議論がなされている。[要出典]

何がクオリアを持つのか

[編集]

クオリアが存在論的な意味で何であるかとは別として、何がクオリアを持つのか、という問題がある。人間の大人は質感を持つことは一つの前提となるが、そこから距離を置いたものとしてよく議論されるのが以下の三つである。

赤ん坊の意識
ヒトは精子卵子が結合した受精卵が細胞分裂を繰り返し成長していくことで人間の形となっていく。出産後もさらに大きい変化を続けて最終的に大人となる。この間のどの段階で意識体験が現れるか、また質感・クオリアが生まれるか。はっきりとした時点は明確ではない。[要出典]
どのような生物が質的経験を持つのだろうか。たとえばゾウは「痛み」の質感を経験するだろうか。またはそうした経験をしているのは人間だけだろうか。こうした問題についての議論にはっきりとした結論は出ていない。
動物の意識(Animal consciousness)
系統学的にヒトに近いチンパンジーゴリラなどの霊長類から、イヌネココウモリなどの哺乳類、さらにトカゲなどの爬虫類、他にもイカタコハエゴキブリミミズミジンコなど地球上には様々な動物がいる。これら動物の中でヒト以外でクオリアを持つ動物はいるのか、いるとしたらそれはどれか、といった議論がある[60]一般に高い知能を持つ生物を対象にして議論が行われることが多い。ちなみにそれぞれの生物が持つ独自の知覚世界は環世界と呼ばれる。
神経学者のラマチャンドランはクオリアを持つには脳内で「感覚の表象」の表象、つまりメタ表象(Meta-representation)が実現されていることが必要であるとする。このメタ表象の機能は言語機能と密接に関わっているだろうとして、そこからクオリアを持つのはヒトのみであるだろうとする。こうした考えに対し、複雑な神経系を持つヒトのような生物だけでなく、より単純な生物まで広くクオリアが拡がっているとする考えもある。こうした立場の最たるものは一種の汎心論である。哲学者のチャーマーズは生物のみならずやサーモスタットといった非生命的な物質にも、より単純ではあるが何らかの意識体験があるだろうとする。
動物の意識の議論は学問的には、まず、宇宙の歴史のどの段階で意識体験が発生したか、という意識に関する歴史的な点についての問題である。ラマチャンドランのように、ヒトのような高等生物のみに質的経験があるとするならば、クオリアは宇宙の進化のある段階において、ある場所に初めて現れるものということになる。逆にチャーマーズのように汎心論的な立場を取れば、意識体験は宇宙が存在し始めた時から、ずっと存在し続けていたことになる。また動物の意識の議論は、動物倫理などの観点からも問題となる。つまり、もしある生物が痛み苦しみを体験しているなら、そうした生き物を苦しめるべきではない、といった道徳的な議論とつながる。
[要出典]
機械の意識(Machine consciousness、人工知能人工意識
将来のコンピューターが会話を行い、センサーを通じて外部の光の波長を処理できたような場合に、その人工知能は赤さを感じることになるのか[61]。関連する思考実験として、中国脳(人工知能に主観的意識体験は宿るのか)や、サールによって提出された中国語の部屋などがある。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ カラーフィルターなどのスペクトルはこの波長とは、性格が異なり一致しないのが普通である[要出典]
  2. ^ 以下は、2016年の『脳科学辞典』で土谷尚嗣が執筆した項「クオリア」からの引用[1]
     クオリアは、我々の意識にのぼってくる感覚意識やそれにともなう経験のことである。脳科学では、クオリアはなんらかの脳活動によって生み出されていると考える。 …

     クオリアとは、ラテン語 qualiaで、単数形は a quale であり、我々が意識的に主観的に感じたり経験したりする「」のことを指す。日本語では感覚質とも呼ばれる[註 1] 。一般に、夕焼けの赤い感じ、虫歯の痛み、などの比喩を使って説明されることが多い。 …


    註釈
    1. ↑ クオリアは「質感」と呼ばれることもある。しかし、材料の表面の触った感じ、見た目の感じ、のテクスチャのことを特に「質感」と呼ぶことが多く、混乱を招くので、この項では質感という語は使わない。[1]
  3. ^ 2019年の土谷および西郷の論文によれば、「意識」という主観的概念を《科学で扱ったり観測したりすることはできない》と論じる哲学者・心理学者・認知科学者は今でも多い[3]。デネットやスローマンやスタノヴィッチのような哲学者は、そもそも「意識」という概念は定義不可能であると論じている[3]

    しかし土谷と西郷によれば、実践的な研究は以前から主観的意識を扱っており、それは二種類に大別されている[3]。一つは、主に臨床で使われる「意識レベル」( 「意識の量」)であり、もう一つは「意識の中身」( 「クオリア」・「意識の質」)である[3]。土谷と西郷は、それらの意味での「意識」を「数学的に厳密に定義できるか」について研究し[3]、数学の「圏論」を使うことで意識やクオリアを定義している[8]。「意識の」の例としては、「意識レベルの圏」と「意識の中身の圏」がある[8]。「圏論の数学的ツールをつかった主観意識の研究が枠組みとして定着すれば … 大きなブレイクスルーにつながると著者〔土谷・西郷〕は考えている」という[9]

  4. ^ 以下、2009年のトノーニとバルドゥッツィによる学術論文の原文の引用[12]
    Qualia space for a system of 4 elements is 16-dimensional (with an axis for each of the 24 possible states of the complex); the axes are flattened onto the page. Upon entering state x1 = 1000, the complex generates a quale or shape in Q-space.[12]
  5. ^ 原文では“qualia are a likely outcome of the processing of information in local cortical networks”[6].
  6. ^ 茂木いわく、《心的表象はニューロン活動の随伴現象である》ということを言い換えれば、《ある心的表象を指定するのに必要十分な情報は、物質的過程(ニューロン活動)の時空間パターンの中に含まれている》となる[16]
  7. ^ 茂木はシュレディンガー方程式を

    と表記している[21]
  8. ^ こうした枚挙的な例示は様々な文献で見られるが、ここでの例示はチャーマーズの「Conscious Mind」中での記述と、SEPにおける説明を基にしている[要出典]

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f 土谷 2016, p. 「クオリア」.
  2. ^ 新村 2018, p. 819.
  3. ^ a b c d e f 土谷 & 西郷 2019, p. 463.
  4. ^ 三村 2013, p. 24.
  5. ^ a b Tononi & Balduzzi 2009, p. 1.
  6. ^ a b c Orpwood 2017, p. 1.
  7. ^ a b Chalas et al. 2018, p. 10 (2).
  8. ^ a b 土谷 & 西郷 2019, p. 464.
  9. ^ 土谷 & 西郷 2019, p. 474.
  10. ^ Tye, Michael. Edward N. Zalta (ed.). "Qualia". The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Summer 2009 ed.). Philosophers often use the term 'qualia' (singular 'quale') to refer to the introspectively accessible, phenomenal aspects of our mental lives. In this standard, broad sense of the term, it is difficult to deny that there are qualia.
  11. ^ Tononi & Balduzzi 2009, p. 1, 12.
  12. ^ a b c d Tononi & Balduzzi 2009, p. 7.
  13. ^ a b 茂木 2002a, p. "books.html".
  14. ^ 茂木 2002b, p. "qualia.html".
  15. ^ a b 茂木 2002c, p. "qualia/qualia-j-0.html".
  16. ^ a b c d 茂木 2001, p. 356 (14).
  17. ^ a b 茂木 2001, pp. 356-357 (14-15).
  18. ^ a b c 茂木 2001, p. 356 (15).
  19. ^ a b c 茂木 2001, pp. 361-362 (19-20).
  20. ^ a b c d e f 茂木 2001, p. 362 (20).
  21. ^ 茂木 2001, p. 361 (19).
  22. ^ a b デイヴィッド・チャーマーズハード・プロブレムについて論じた二本の論文。Facing Up to…」に対して寄せられた様々な批判に答える形で出されたのが「Moving Forward on…
  23. ^ Lewis, C. I. (1929). Mind and the World-order: an Outline of a Theory of Knowledge. Chrls Scribner's Sons.
    復刻版 Lewis, C. I. (1991). Mind and the World-order: an Outline of a Theory of Knowledge. Dover Pubns. ISBN 0486265641
  24. ^ Lewis, C. I. (1929), p.121.
  25. ^ 柴田正良 2008, 柏端達也(訳)「第八章 痛みの志向性とその現象的側面についてすこし」p.174より.
  26. ^ Goodman, NeLson. The Structure of Appearance. 初版:Harvard UP、1951年。第2版:Indianapolis: Bobbs-Merrill、1966年。第3版:Boston: Reidel、1977年。
  27. ^ a b Nagel, Thomas (1974). "What Is it Like to Be a Bat?". Philosophical Review: 435–450.
  28. ^ a b トマス・ネーゲル『コウモリであるとはどのようなことか』永井均(訳)、勁草書房、1989年。ISBN 4-32-615222-2 
  29. ^ Jackson, Frank (1982). "Epiphenomenal Qualia". The Philosophical Quarterly. 32 (127): 127–136. doi:10.2307/2960077
  30. ^ a b チャーマーズ 2001, p. 不明.
  31. ^ Byrne, Alex. Edward N. Zalta (ed.). "Inverted Qualia". The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Winter 2008 ed.).
  32. ^ Toward a Scientific basis for consciousness」米国 アリゾナ大学主催、1994年4月12 - 17日開催、米国アリゾナ州ツーソン市。 サイト
  33. ^ Anil K Seth (2007). "Models of consciousness". Scholarpedia. 2 (1): 1328. doi:10.4249/scholarpedia.1328
  34. ^ フレッド・ドレツキ『心を自然化する』鈴木貴之(訳)、勁草書房〈ジャン・ニコ講義セレクション2〉、2007年。ISBN 978-4-326-19958-7 
  35. ^ David Chalmers (2003). Stephen Stich, Ted A Warfield (ed.). "Consciousness and its Place in Nature" (PDF). The Blackwell Guide to Philosophy of Mind. Blackwell philosophy guides, 10. ISBN 0631217754
  36. ^ フランシス・クリック『DNAに魂はあるか―驚異の仮説』講談社、1995年。ISBN 4061542141 少し妙なタイトルだが、人間はニューロンのカタマリにすぎない、という主張を持つ一冊[要出典]
  37. ^ ダニエル・デネット『解明される意識』青土社、1998年。ISBN 4-7917-5596-0 
  38. ^ 信原幸弘『意識の哲学―クオリア序説』岩波書店、2002年。 
  39. ^ 金杉武司『心の哲学入門』勁草書房、2007年。ISBN 978-4-326-15392-3 
  40. ^ a b Tononi, Giulio (2004). "An information integration theory of consciousness". BMC Neuroscience. 5 (42). doi:10.1186/1471-2202-5-42
  41. ^ ロジャー・ペンローズ『心の影 意識をめぐる未知の科学を探る』林一(訳)、みすず書房  一巻 ISBN 4-622-04126-X 2001年、 二巻 ISBN 4-622-04127-8 2002年4月
  42. ^ 茂木健一郎『脳とクオリア―なぜ脳に心が生まれるのか』日経サイエンス社ISBN 4532520576 
  43. ^ Hameroff, Stuart R.; Penrose, Roger (1996). "Conscious events as orchestrated space-time selections" (PDF). Journal of Consciousness Studies. 3 (1): 36–53.
  44. ^ スチュワート・ハメロフロジャー・ペンローズ(著)、茂木健一郎(訳)(編)「意識はマイクロチューブルにおける波動関数の収縮として起こる」『ペンローズの<量子脳>理論―心と意識の科学的基礎をもとめて』、筑摩書房、2006年、139-194頁、ISBN 978-4480090065 (上の論文の日本語訳)
  45. ^ コリン・マッギン『意識の<神秘>は解明できるか』石川幹人(訳)、五十嵐靖博(訳)、青土社、2001年。ISBN 4-7917-5902-8 
  46. ^ トマス・ネーゲル『どこでもないところからの眺め』中村昇(訳)、山田雅大(訳)、岡山敬二(訳)、齋藤宜之(訳)、新海太郎(訳)、鈴木保早(訳)、春秋社、2009年。ISBN 9784393329047 
  47. ^ トマス・ネーゲル『コウモリであるとはどのようなことか』永井均(訳)、勁草書房、1989年。ISBN 978-4326152223 
  48. ^ Velmans, Max (2008). "Reflexive Monism". Journal of Consciousness Studies. 15 (2): 5–50.
  49. ^ 永井均『なぜ意識は実在しないのか』岩波書店、2007年。ISBN 978-4000281577 
  50. ^ 永井均、入不二基義上野修、青山拓央『〈私〉の哲学を哲学する』講談社、2010年。ISBN 978-4062165563 
  51. ^ Kandel, Eric; Schwartz, James; Jessell, Thomas (2000). Principles of Neural Science (4 ed.). McGraw-Hill Medical. p. 398. ISBN 978-0838577011
  52. ^ Crick, Francis; Koch, Cristof (2003). "A framework for consciousness". Nature Neuroscience. 6 (2): 119–126. doi:10.1038/nn0203-119. PMID 12555104
  53. ^ Mormann, Florian; Koch, Christof. "Neural correlates of consciousness". Scholarpedia. 2 (12): 1740.
  54. ^ クリストフ・コッホ『意識の探求―神経科学からのアプローチ』土谷尚嗣(訳)、金井良太(訳)、岩波書店、2006年。  上巻:ISBN 4000050532 下巻:ISBN 4000050540
  55. ^ 『脳のなかの幽霊、ふたたび―見えてきた心のしくみ』山下篤子(訳)、角川書店、2005年。ISBN 4047915017 
  56. ^ ダニエル・C・デネット『スウィート・ドリームズ』土屋俊(訳)、土屋希和子(訳)、エヌティティ出版、2009年。ISBN 978-4757160132 
  57. ^ ニコラス・ハンフリー『赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由』柴田裕之(訳)、紀伊國屋書店、2006年。ISBN 978-4314010177 
  58. ^ ブラックモア 2009, 第一章 「ネッド・ブロック‐機能主義に反駁したいと思ってるんです」.
  59. ^ クリストフ・コッホ『意識の探求―神経科学からのアプローチ』土谷尚嗣(訳)、金井良太(訳)、岩波書店、2006年。  上巻:ISBN 4000050532 下巻:ISBN 4000050540
  60. ^ Allen, Colin. Edward N. Zalta (ed.). "Animal Consciousness". The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Summer 2011 ed.).
  61. ^ 柴田正良『ロボットの心』講談社〈講談社現代新書〉、2001年。ISBN 4-06-149582-8 

参考文献

[編集]

辞事典

[編集]
日本語辞典
脳科学・神経科学辞典

理学・理工学・医療科学・医工学

[編集]
  • 土谷, 尚嗣、西郷, 甲矢人「圏論による意識の理解(誌上討論:圏論的アプローチで意識は理解できるか)」『認知科学』第26巻第4号、日本認知科学会、2019年、462-477頁、doi:10.11225/jcss.26.462 
  • Orpwood, Roger D. (2017-04-21). “Information and the Origin of Qualia”. Frontiers in Systems Neuroscience (Switzerland: Frontiers Media S.A.) 11 (22): 1-16. doi:10.3389/fnsys.2017.00022. 

Webページ

[編集]

人文科学・哲学

[編集]
  • 柴田正良、美濃正、服部裕幸、月本洋、伊藤春樹、前野隆司三浦俊彦、柏端達也、篠原成彦 著、長滝祥司(編) 編『感情とクオリアの謎』昭和堂、2008年。ISBN 978-4812208083 (感情およびクオリアについての、日本人哲学者および科学者らによる論文集。最後には対談も付けられている。各論文は独立しており、議論されている内容は様々である。)
  • チャーマーズ, デイビッド『意識する心-脳と精神の根本理論を求めて』林一(訳)、白揚社、2001年。ISBN 4-8269-0106-2 (翻訳元は The Conscious Mind: In Search of a Fundamental Theory. Oxford University Press. 1996. ハードカバー版:ISBN 0-19-511789-1、文庫本版:ISBN 0-19-510553-2意識のハードプロブレムについて論じた一冊。この本の要旨は以下の三点。1. 脳に関する知見を現在の物理学の枠内で深めていっても、クオリアについての説明は出てこない(この論証に哲学的ゾンビが使われる)。2. ゆえに現在の物理学は拡張されなければならない。3. この拡張は、物理状態とクオリアの間をつなぐ共通項として「情報」を基礎に置いていくようなものになるはずである。当書は現代科学と分析哲学についての一定の知識を前提とした上で、細かい論点についての議論が長々と続く大部の著作であり、初学者が読みきるのはおそらくあまり楽なものではない。)
  • ブラックモア, スーザン『「意識」を語る』山形浩生(訳)、守岡桜(訳)、NTT出版、2009年。ISBN 4757160178 (翻訳元は Conversations on Consciousness. Oxford University Press. 2007. ハードカバー版:ISBN 0195179595。意識に関する二つの大きな国際会議、ツーソン会議ASSCの会場で、様々な分野の研究者20人にインタビューした記録をまとめた本。クオリア、ゾンビ、ハードプロブレム、自由意志について、それぞれの研究者に「あなたはどう思いますか」という形で質問をぶつける構成。ブラックモアは現代の意識研究に関する知識が豊富で、それぞれの相手に対しかなり突っ込んだインタビューを行っている。クオリアの問題に関し、現在いかに人々の間で意見が割れているか、それを知るうえで有用な一冊。)
  • ブラックモア, スーザン『意識』筒井晴香(訳)、信原幸弘(訳)、西堤優(訳)、岩波書店〈〈1冊でわかる〉シリーズ〉、2010年。ISBN 978-4000269018 オックスフォード大学出版局Very Short Introductions シリーズの邦訳。翻訳元は Consciousness: A Very Short Introduction. Oxford University Press. 2005. ISBN 9780192805850 ハードプロブレムの解説から始まり、現代の意識研究に関する哲学的な議論および科学的な研究を手短にまとめている。イラストや写真も挟まれ、それほど前提知識を必要としない教科書的な構成となっている。当書は簡潔な構成だが、ブラックモアによる意識の解説書としてより詳細なものに Consciousness: An Introduction. Oxford University Press. 2011. ISBN 978-0199739097 がある。ただしこちらは2011年6月時点で未邦訳である。)
  • 三村, 尚彦「身体による「一人称的パースペクティブ」の拡張 ― 「二人称の科学」としての現象学 ―」『トランスパーソナル心理学/精神医学』第13巻第1号、日本トランスパーソナル心理学/精神医学会、2013年、24-33頁、doi:10.32218/transpersonal.13.1_24 

日本語のオープンアクセス文献

[編集]
  • 入不二基義「Qualiaの不在」『科学哲学』第30巻、日本科学哲学会、1997年、77-92頁、doi:10.4216/jpssj.30.77 
  • 岩崎豪人「意識についての哲学的アプローチ」『哲学論叢』第22号、京都大学哲学論叢刊行会、1995年、49-60頁、hdl:2433/24571 
  • 苧阪直行「<特集―意識 : 脳と心の認知科学>編集にあたって」『認知科学』第4巻第4号、1997年、pp.3_3-3_4、doi:10.11225/jcss.4.3_3 
  • 太田紘史「意識の表象理論」『哲学論叢』第34巻、京都大学哲学論叢刊行会、2007年、102-113頁、hdl:2433/70798 
  • 太田紘史、山口尚「<書評>反機能主義者であるとはどのようなことか」『Contemporary and Applied Philosophy』第2巻、2010-2011、doi:10.14989/141960 
  • 冲永宜司「内的特性の存在論的位置」『哲学』第2005巻第56号、2005年、pp.157-169,8、doi:10.11439/philosophy1952.2005.157 
  • 篠原成彦「クオリアの疑わしさについて」『人文科学論集人間情報学科編』第41巻、信州大学人文学部、2007年、人文科学論集人間情報学科編、hdl:10091/2782 
  • 柴田正良「ロボットの心はやはり冷たいか?: ロボットは、認知機能を超えて、意識・クオリア(qualia)を持てるか?」『平成21年度西田幾多郎哲学講座4 発表資料』2009年7月4日、32頁、hdl:2297/18474 
  • 羽地亮「概念的考察の頂点-信原幸弘著『意識の哲学-クオリア序説』(岩波書店,2002年刊)を読む」『科学哲学』第41巻第2号、日本科学哲学会、2008年、pp.2_89-2_100、doi:10.4216/jpssj.41.2_89 
  • 前田高弘「表象としての経験」『科学哲学』第38巻第2号、日本科学哲学会、2005年、123-138頁、doi:10.4216/jpssj.38.2_123 
  • 水元正晴「事実とクオリア : コネクショニズムと直接実在論」『一橋大学一橋論叢』第133巻第2号、日本評論社、2005年2月、122-145頁、doi:10.15057/15336 
  • 美濃正「クオリアなんて怖くない」『科学哲学』第32巻第2号、日本科学哲学会、1999年、39-51頁、doi:10.4216/jpssj.32.2_39 
  • 村田徳幸「科学的アプローチによるクオリア概念の再考」『哲学誌』第49巻、東京都立大学哲学会、2007年3月、37-55頁、NAID 110006345356hdl:10748/4524 

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]

日本語

英語