慶光院利彰
けいこういん よしあき 慶光院 利彰 | |
---|---|
死没 | 没年不詳 |
国籍 | 日本 |
時代 | 昭和時代 |
配偶者 | 妻:慶光院文子(二条正麿三女) |
親 |
父:慶光院利敬(伊勢神宮少宮司) 母:慶光院増子(東園基愛長女) |
慶光院 利彰(けいこういん よしあき[1]、1913年〈大正2年〉2月 - 没年不詳)は、日本の資産家[2]。慶光院家第3代当主。
生涯
[編集]出自と前半生
[編集]神宮式年遷宮復興に尽力した慶光院の遺跡を継承した三重県士族・慶光院家の出身[2]。利彰は伊勢神宮少宮司の慶光院利敬の嫡男として大正2年(1913年)2月に誕生する[2]。父の利敬が二条斉敬の実子であるため[3]、藤原鎌足の直男系男子孫にあたる[注釈 1]。生母の増子は、利彰を出産した同年11月18日に死去した[4]。
昭和9年(1934年)3月30日、学習院文科(甲類)を卒業[5]。同年4月、京都帝国大学法学部に入学し[6]、昭和12年(1937年)3月30日、卒業した[7]。同年4月、京都帝国大学経済学部に入学し[8]、昭和15年(1940年)3月30日、卒業した[9]。この間、昭和13年(1938年)2月に父を喪い[注釈 2]、同年3月に家督を継承した[2]。
昭和17年(1942年)12月16日、所有する銅製神楽釜が重要美術品に認定された[11]。
昭和25年(1950年)5月7日、公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令に関連して、公職追放に該当しない者であることが認定された[12]。
大塚製靴社員
[編集]利彰は大塚製靴に入社した[注釈 3]。のちに同社の社長室長兼秘書課長に任じられている[14]。
昭和32年(1957年)11月6日、USMC社社長ブラウン、副社長クーリッシュが来日し[15]、これに応対した[16]。
昭和33年(1958年)3月、近藤四郎助教授の監修のもと、PR映画『私たちのクツ』が製作され、指導の一人としてこれに参加した[15][17]。
昭和39年(1964年)10月、チャーチ靴会社社長ステュワート・ケネディが来日し[18]、これに応対した[19]。
昭和40年(1965年)4月26日、大塚製靴は新商品「スリーワイズ」を発売[20]、利彰はこの名前を考案した[21][22]。
昭和41年(1966年)8月12日、秘書課長として、小島孝二販売第一課長と共に東京の有名靴店の2代目が集う親睦団体・七光会の欧米渡航に参加した[23][24]。このとき利彰は、ヨーロッパの靴店のウィンドウで足囲部分に巻き尺を巻き付けたディスプレイを見てこれを撮影し、帰国後スリーワイズの宣伝広告に利用した[22]。車内広告では、昭和42年(67年)・43年(68年)と2年連続で優秀車内ポスターに選ばれ[22]、『週刊新潮』に掲載された「一つの長さに三つのサイズ」という雑誌広告で、昭和44年度(1969年度)に「消費者のためになった広告」展生活文化部門で最優秀賞を獲得した[22][25]。
昭和44年(1969年)11月1日、玉川髙島屋ショッピングセンターが開店、この中に大塚製靴初のモデル店「SHU-PUB」として出店するが、この店名も利彰が考えた[26]。
昭和46年(1971年)3月、翌年に創業100年を迎えるにあたり、利彰を委員長として「一〇〇周年記念事業企画委員会」が発足した[27]。そこで記念パーティの開催や百年記念セールの実施、百年史の刊行が決まった[28]。利彰は大塚製靴百年史編纂委員会委員長に就任した[29]。
昭和47年(1972年)2月4日、大塚製靴が満百年を迎え、帝国ホテル孔雀の間に於いて記念パーティーが開催された[30]。また、これに伴って同日、長年の精勤、「特に当社に即応した商標、商号を考案しこれを市場に周知せしめる努力を重ね海外諸会社との提携ならびに交流に際し格別の専門知識を発揮して」「国際的名声を高めた」功績により、表彰規定に従って桜章を授与された[14]。12月3日、大塚斌社長・パピーシューズ重見肇と共にアメリカ合衆国へ出張、その後利彰のみ欧州へ航った[31]。
昭和49年(1974年)12月11日、社長と共に欧州へ出張した[32]。
昭和51年(1976年)1月1日、継続して行われていた編纂事業が終わり、『大塚製靴百年史』が刊行された[33]。
系譜
[編集]出典が無い限り『人事興信録』14版上, p. ケ1を参照している。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 系譜としては、藤原鎌足─1.不比等─2.房前─3.真楯─4.内麻呂─5.冬嗣─6.長良─7.基経─8.忠平─9.師輔─10.兼家─11.道長─12.頼通─13.師実─14.師通─15.忠実─16.忠通─17.九条兼実─18.良経─19.道家─20.二条良実─21.兼基─22.道平─23.良基─24.師嗣─25.持基─26.持通─27.政嗣─28.尚基─29.尹房─30.晴良─31.鷹司信房─32.信尚─33.教平─34.九条兼晴─35.輔実─36.幸教─37.二条宗基─38.治孝─39.斉信─40.斉敬─41.慶光院利敬─42.利彰と続く。すなわち利彰は鎌足の42世孫にあたる。
- ^ 『官報』第3342号, p. 11では2月19日に卒去したとあるが[10]、『平成新修旧華族家系大成』下巻, p. 319では2月18日に卒去したという。
- ^ 入社時期については未詳だが、『大塚製靴百年史』, p. 529より、昭和47年(1972年)2月4日現在の永年勤続者一覧に於いて、「十九年」の中に名が見えるため、昭和28年(1953年)頃に入社したものと思われる。昭和29年(1954年)には労働組合役員に名を連ねている[13]。
- ^ 「第18回 すきや連例会(26年夏例会)が伊勢市「若柳」で開催された。」『江戸東京野菜通信』 - ウェイバックマシン(2020年9月22日アーカイブ分)より、利致が大宮司(俊)の甥であること、敏子・治子が他家に嫁ぎ姓が変わっていること、父帰幽後5年ほど経って刊行されている『人事興信録』14版上, p. ケ1に於いて弟の存在が確認できないことから、分家した庶子・俊を除いて利彰が利敬唯一の男子であり、利致がその子供であると推定できる。
出典
[編集]- ^ 『大塚製靴百年史』資料, p. 3, 索引.
- ^ a b c d 『人事興信録』14版上, p. ケ1.
- ^ a b 『平成新修旧華族家系大成』下巻, p. 319.
- ^ a b 『平成新修旧華族家系大成』下巻, p. 388.
- ^ 『官報』第2183号, p. 16, 「彙報(学事):卒業證書授与」.
- ^ 『官報』第2201号, p. 14, 「彙報(学事):入学許可」.
- ^ 『官報』第3093号, p. 15, 「彙報(学事):学士試験合格者」.
- ^ 『官報』第3098号, p. 20, 「彙報(学事):入学許可」.
- ^ 『官報』第4001号, p. 28, 「彙報(学事):学士試験合格者」.
- ^ 『官報』第3342号, p. 11, 「彙報(官庁事項):官吏薨去、卒去及死去」.
- ^ 『官報』第4780号, p. 7, 「告示:文部省告示第六百四十二号」.
- ^ 『官報(号外)』第45号, p. 6, 「総理府公告:資格審査結果公告」.
- ^ 『大塚製靴百年史』資料, p. 183, 大塚製靴労働組合役員推移一覧表.
- ^ a b 『大塚製靴百年史』資料, p. 276.
- ^ a b 『大塚製靴百年史』, p. 702, 年表.
- ^ 『大塚製靴百年史』, p. 476.
- ^ 『大塚製靴百年史』, p. 414.
- ^ 『大塚製靴百年史』, p. 706, 年表.
- ^ 『大塚製靴百年史』, p. 477.
- ^ 『大塚製靴:株式会社五十年』, p. 306, 年表.
- ^ 『大塚製靴百年史』, p. 487.
- ^ a b c d 『大塚製靴:株式会社五十年』, p. 253.
- ^ 『大塚製靴百年史』, p. 471.
- ^ 『大塚製靴百年史』, p. 707, 年表.
- ^ 『大塚製靴百年史』, p. 486.
- ^ 『大塚製靴百年史』, p. 491.
- ^ 『大塚製靴百年史』, pp. 517–518.
- ^ 『大塚製靴百年史』, p. 517.
- ^ 『大塚製靴百年史』, p. 62.
- ^ 『大塚製靴百年史』, p. 518.
- ^ 『大塚製靴百年史』, p. 714, 年表.
- ^ 『大塚製靴百年史』, p. 718, 年表.
- ^ 『大塚製靴:株式会社五十年』, p. 308, 年表.
- ^ 『神道人名辞典』, p. 432.
- ^ 『平成新修旧華族家系大成』上巻, p. 234.
- ^ 『平成新修旧華族家系大成』上巻, p. 276.
- ^ 『平成新修旧華族家系大成』下巻, p. 324.
参考文献
[編集]書籍
[編集]- 『人事興信録:14版上』人事興信所編、人事興信所、1943年10月1日。
- 『大塚製靴百年史』大塚製靴百年史編纂委員会、大塚製靴、1976年1月1日。
- 『大塚製靴百年史:資料』大塚製靴百年史編纂委員会、大塚製靴、1976年3月15日。
- 『神道人名辞典』神社新報社編、神社新報社、1986年7月8日。
- 『平成新修旧華族家系大成:上巻』霞会館編、吉川弘文館、1996年9月10日。
- 『平成新修旧華族家系大成:下巻』霞会館編、吉川弘文館、1996年11月20日。
- 『大塚製靴:株式会社五十年』財団法人日本経営史研究所編、大塚製靴、2003年8月15日。
官報
[編集]- 『官報』第2183号、1934年4月14日。
- 『官報』第2201号、1934年5月7日。
- 『官報』第3093号、1937年4月28日。
- 『官報』第3098号、1937年5月5日。
- 『官報』第3342号、1938年2月25日。
- 『官報』第4001号、1940年5月11日。
- 『官報』第4780号、1942年12月16日。
- 『官報(号外)』第45号、1950年5月7日。
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