成瀬正俊
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なるせ まさとし 成瀬 正俊 | |
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生誕 |
1930年(昭和5年)9月3日 東京府 |
死没 | 2008年(平成20年)4月4日 |
死因 | 敗血症 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 学習院大学文学部 |
職業 | 俳人 |
肩書き | 犬山城城主 |
子供 | 成瀬正浩、成瀬正祐、成瀬淳子 |
親 | 父:成瀬正勝、母:文子 |
受賞 | 犬山市名誉市民 |
成瀬 正俊(なるせ まさとし、1930年〈昭和5年〉9月3日 - 2008年〈平成20年〉4月4日)は、日本の俳人。国宝・犬山城の元城主であり、旧所有者。称号としては愛知県犬山市初の名誉市民を贈られている[1]。角川書店やテレビ朝日にも勤務していた。
略歴
[編集]父は尾張藩付家老・犬山藩主成瀬正成の末裔で、成瀬家11代当主の成瀬正勝。母は旧松尾藩主太田資美の長男で子爵である資業の娘、文子。東京都生まれ。学習院大学文学部卒業。学位は文学士。1972年(昭和47年)に父の正勝の死去に伴い第12代城主をつとめる。犬山城は2004年(平成16年)4月に成瀬家が設立した財団法人の犬山城白帝文庫に移管された。
長女は財団法人犬山城白帝文庫理事長の成瀬淳子、長男は成瀬正浩。別の息子の成瀬正祐は元ホトトギス社勤務の、貸本漫画研究者。
2008年(平成20年)4月4日午前1時25分に東京都内の病院で敗血症により死去。享年78[2]。
高浜虚子に師事した俳人で、ホトトギスの同人でもあった。初期には「正とし」を名のっていた。
なお同年4月7日に東京都渋谷区にある雲照寺にて、葬儀・告別式が行なわれた。名誉市民に認定している犬山市においても、犬山国際観光センターで2008年6月28日に市葬が営まれた。市民ら約330人が参列し、「殿様」と親しまれた人柄をしのんだ[3]。
- 年表
- 1930年(昭和5年)9月3日 - 生誕
- 1972年(昭和47年) - 父・正勝死去。犬山城第12代城主に就任。
- 2004年(平成16年)4月 - 犬山城を財団法人犬山城白帝文庫へと移管。
- 2008年(平成20年)4月4日 - 敗血症により死去。
- 2008年(平成20年)4月7日 - 雲照寺(東京都渋谷区)にて葬儀と告別式開催。
- 2008年(平成20年)6月28日 - 犬山市による市葬が開催された。
著書
[編集]- 『裸の楽が記~四高時習寮』(1956年)
- 『星月夜』成瀬正とし(白玉書房、1961年)
- 『帰城』成瀬正とし(新樹社、1978年)
- 『城影』(七月堂、1979年)
- 『合戦屏風覚書』(犬山城出版部、1981年)
- 『成瀬正俊集』(俳人協会、1981年)
- 『京極杞陽の世界』(梅里書房、1990年)
- 『とのさま俳話』(梅里書房、1992年)
- 『とのさま俳話2』(梅里書房、1993年)
- 『とのさま俳話3』(梅里書房、1994年)
- 『冬の風鈴 とのさま写生文集』(梅里書房、1995年)
- 『赤椿物語 とのさま写生文集』(梅里書房、1996年)
- 『犬山城俳諧夢譚』(梅里書房、1997年)
- 『城を売る男』(梅里書房、1998年)
- 『正俊五百句』(梅里書房、1999年)
脚注
[編集]- ^ “名誉市民”. 犬山市. 2022年8月17日閲覧。
- ^ 『成瀬正俊氏死去 犬山城の最後の城主』(西日本新聞)[リンク切れ]
- ^ 読売新聞2008年6月29日成瀬正俊氏の市葬 犬山城12代城主 330人、「殿様」人柄しのぶ[リンク切れ]