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太田資美

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
太田資美
太田資美
時代 江戸時代末期 - 大正時代初期
生誕 嘉永7年2月24日1854年3月22日
死没 大正2年(1913年12月28日
別名 総次郎(通称
墓所 東京都荒川区西日暮里本行寺
静岡県三島市妙法華寺
官位 従五位下備中守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家茂慶喜明治天皇
遠江掛川藩主→上総柴山藩主→上総松尾藩知事
氏族 太田氏
父母 父:太田資始、母:不詳
養父:太田資功(異説あり)
兄弟 資功秋元礼朝内藤政挙資美、宝、籌、相馬充胤継々室、短子、松平忠誠正室
正室:薬普間部詮勝の娘)
資業成瀬正雄夫人
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太田 資美(おおた すけよし)は、江戸時代後期の大名遠江国掛川藩の第7代(最後の)藩主。上総国松尾藩知事。掛川藩太田家11代。

生涯

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第5代藩主・太田資始の七男(先代藩主・太田資功の四男との説もある)。文久2年(1862年)3月29日、養父・資功の死去により、家督を継いだ。わずか8歳であり、資始が補佐したと伝わる。慶応4年(1868年)1月14日、旧幕府から駿府城の守備を命じられる。同年2月1日、駿府城から撤退する。同年3月21日、新政府への恭順の姿勢を示すために上洛し、同年3月26日、参内する。同年4月15日、従五位下・備中守に叙任する。同年9月21日、駿河国遠江国三河国徳川家達が移封となったため、上総夷隅郡内5万3000石余に移封を命じられる。同年11月10日、上総山辺郡内5万3350石へ移封を改めて命じられる。明治2年(1869年)5月16日、「柴山藩」を称することにする。明治2年(1869年)6月17日、版籍奉還知藩事となる。その後、武射郡内に松尾城を築城して明治4年(1871年)1月に藩庁を移し、松尾藩に改称した。資美は藩校の「教養館」や病院「好生所」などの創設に尽力し、財政政策のため、物産会所を設置し、養蚕を奨励するなど、わずか4年の期間ながら優れた手腕を見せた。

明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県で知藩事職を免ぜられる。明治9年(1876年)12月、宮中祗候に就任する。明治17年(1884年)7月8日に子爵を叙爵[1]。明治期には慶應義塾が外国人教師(クリストファー・カロザースら)を招く際の財的支援や、東京仏学校法政大学の前身の一つ)の設立に尽力するなど教育・芸術関連に貢献した[2]

家族

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父母

子女

脚注

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  1. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
  2. ^ 中山良昭『江戸300藩・殿様のその後』朝日新書(2007)
  3. ^ 太田資美『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
掛川太田家初代
1884年 - 1913年
次代
太田資業