成田五郎
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成田 五郎 なりた ごろう | |
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生年月日 | 1857年4月??日 |
出生地 | 日本・福井藩 |
没年月日 | 没年不明 |
死没地 | 日本・東京府東京市 |
出身校 |
東京外国語学校 (旧制) (現・東京外国語大学)[1] |
称号 | 従六位勲五等[2] |
在任期間 | 1906年1月24日 - 1908年10月15日 |
在任期間 | 1903年12月9日 - 1906年1月23日 |
在任期間 | 1900年9月29日 - 1903年12月8日 |
成田 五郎(なりた ごろう、1857年(安政4年)4月 - 没年不明)は、日本の外交官。マニラ領事や豪州タウンズビル領事を歴任。渋谷町会議員。
経歴
[編集]福井藩(現:福井県越前市)出身。福井藩の砲術師(自由斎流)成田半之助・母、豊田サクの長男として生まれる[1][7]。弟は明治期を代表する写真師成田常吉である。
東京外国語学校 (旧制)を卒業後、内務省駅逓局に勤務する。1881年(明治14年)、外務省に異動し在清國漢口領事館、在布哇国在ホノルル領事館、在シドニー領事館、タコマ領事館シアトル分館の書記生を務めた。1900年より在マニラ日本副領事 [6]及び領事、在タウンズビル日本帝国領事[3]を歴任した。
年譜
[編集]- 1857年(安政4年)、福井藩(現:福井県越前市)に生まれる。
- 1872年(明治4年)、上京[1]。
- 1877年(明治10年)、内務省駅逓局勤務[8]。
- 1881年(明治14年)、外務省勤務[9]。
- 1889年(明治22年)、領事館書記生として在清國漢口領事館に異動[10]。
- 1891年(明治24年)、在布哇国在ホノルル領事館に異動[11]。
- 1899年(明治32年)、在シドニー領事館に異動[12]。
- 1900年(明治33年)
- 1901年(明治34年)、マニラ市内でペストが発生し正確な患者/死亡数を日本に報告する[14]。
- 1903年(明治36年)、在マニラ日本領事館領事に就任する [5]。
- 1906年(明治39年)
- 在タウンズビル日本帝国領事に就任する[3]。
- ドイツ領ニューギニアの領事を兼轄する[4]。
- 1907年(明治40年)、勲五等瑞宝章を叙勲される[2]。
- 1908年(明治41年)、在タウンズビル日本帝国領事閉鎖により帰国[4]。
- 1909年(明治42年)、特命領事となる[15]。
- 1911年(明治44年)、特命領事の任期満了により退職[16]。
- 1912年(大正元年)、樺太ツンドラ板紙株式会社 相談役就任[17]。
- 1921年(大正10年)、渋谷町会議員(現:渋谷区)[1][18]。
- 1927年(昭和2年)、渋谷町共済信用購買利用組合 理事[1][19][20]。
注釈・出典
[編集]- ^ a b c d e 『東京府市名誉録』大蔵省印刷局、1925年、53頁。
- ^ a b 『官報 1907年08月22日』大蔵省印刷局、1910年、455頁。
- ^ a b c 『官報 1906年02月01日』大蔵省印刷局、14頁。
- ^ a b c 『日本領事報告の研究 (京都大学人文科学研究所研究報告)』 角山栄 編、496頁。
- ^ a b 『官報 1903年12月09日』大蔵省印刷局、234頁。
- ^ a b c 『官報 1900年09月29日』大蔵省印刷局、491頁。
- ^ 『福井県史 資料編 6 (中・近世 4 武生市・今立郡・南条郡)』福井県、305頁。
- ^ 『官員名鑑 明治10年9月』弘道軒、17頁。
- ^ 『改正官員録 明治14年10月』博公書院、23頁。
- ^ 『官報 1889年07月30日』大蔵省印刷局、327頁。
- ^ 『官報 1891年06月04日』大蔵省印刷局、50頁。
- ^ 『職員録 明治32年現在(甲)』大蔵省印刷局、48頁。
- ^ 『官報 1900年11月20日』大蔵省印刷局、273頁。
- ^ 『職員録 明治32年現在(甲)』大蔵省印刷局、48頁。
- ^ 『官報 1909年07月02日』大蔵省印刷局、27頁。
- ^ 『官報 1911年12月05日』大蔵省印刷局、117頁。
- ^ 『帝国銀行会社要録 : 附・職員録 大正元年(初版)』帝国興信所、樺太2頁。
- ^ 『渋谷町誌』渋谷警察署新築落成祝賀協賛会、106頁。
- ^ 『官報 1927年07月18日』大蔵省印刷局、468頁。
- ^ 『官報 1933年09月16日』大蔵省印刷局、21頁。